巡礼者,または殉教者,はたまた貨幣・合理主義

妹がニュージーランドから帰ってきた。

案外英語は通じたようであまり苦労はしなかったらしい。

兄として大変微笑ましい。

 

妹はキリストの教会(チャーチ)に行った。

そこで恐れおののいたという。

妹は牧師を前にした男の「懺悔」に畏怖したという。

なぜこんなにも熱狂するのか。不思議でたまらなかったのだ。

彼にとっては神は人生の依り代であったのだけれど,妹からすればそれは理解しかねる行為だったのだ。

 

日本人は宗教に関心があまりないと言われている。

しかし,先日友人から興味深いデータを突きつけられた。

それは,1950年代と2000年代と比べて,①信仰心は下がっているが,②死の世界を信じる割合は増加しているというものだった。

個別に検討していこう。

①信仰心は下がっている

これはおそらく近代の合理主義により説明できる。

宗教の信仰そのものが元々興味が薄かったことがさらに進行したのだ。

信仰したところで現実が変わらないということが大半の日本人にはわかっている。

 

②死後の世界を信じる割合は増加している

①からすれば半ば奇妙なのではなかろうか。

仏教では輪廻転生,キリスト教では天国と地獄と死後の世界は備わっている。

しかしながら現実の信仰は下がっている。

これをどのように捉えればいいのか。

蓋し,「再魔術化」が進行しているのではないか。

それも,「非合理」と我々が捉える宗教の「亡霊」が侵食しているのかもしれない。

昨今の日本における鬱病患者の増加,減少しない自殺者の存在を見ると,ルサンチマンを抱えているように見える。

救いようのない,あるいは出世できない世の中に見切りをつけたい。そんな人間は一定数いるのではないか。

死後の世界なぞ「合理的」な説明ができないのに。

 

妹の畏れはもっともだ。

しかしながら,日本においても突き詰めれば根拠のない言説が一定数支持されている。

貨幣もそうだ。これは社会構成員の共同幻想に他ならない。

 

殉教に対して世界はあまり良い感情を持たない。

これは無関係な人間を巻き込むという批判ももちろんあるだろうが,大半の人間は自分の命を差し出すほどの信仰の熱狂さになにか自分が所属している社会とはかけ離れたものに写るからなのだろう。

 

社会システムの外から見れば人間が構成する社会なぞ全て同じ論理なのだ。

何か超越なもの(大澤真幸からすれば「第三者の審級」)を媒介にして社会は成立している。

その媒介が貨幣か,神か。はたまた法か。それだけの違いに過ぎないと思う。