豊饒の海
9月5日から9月19日までインドに行っていた。
親からはやめろと執拗に言われ,友達からは死ぬなよとかレイプされるなよとか言われたりもした。
インドビザの申請も少しばかりてこずったが何とか取得できた。
今回の記事はインドに行った感想,旅行でのトラブル,そしてインドでの自分の心情を中心に書いていこうと思う。
↑旅程表。かなりの修正は旅にはつきものだ。
インドに行った理由
僕がインドに行った理由は大きく3つある。
- 社会規範をどのように受容されるのか知りたかったから。
7月19日に北大法学研究科附属高等法政教育研究センター主催の講演会でパリ第8大学の小坂井准教授が「常識を見直す難しさ」をテーマにお話をなさってくださり,彼の経歴を見て,そして彼の考えに直に触れることによって「異邦人」であることの魅力(それと同時に代償)を感じ取ったことも大きいのではないか。
僕は日本に生まれて,日本で育ち,社会にとって「ふさわしい」と思われるような学歴を身に着けるために生きてきた(生かされたといってもいいのかもしれない)。そして他者と主に「日本語」という〈コード〉を用いてコミュニケーションを図り,生きている。この流れはいささか社会構築主義的なものであり,どうやらこれが多数の他者と行われると社会規範になるようだ。しかし,僕はこのプロセスを踏んできたにもかかわらず社会規範の形成のプロセスの実態を掴めずにいる。そんなある種の「やりきれなさ」から社会規範が全く違うであろうインドに行くことを決意した。
2.自分はどこまでできるのか知りたかったから
少し余談になるが,僕は人との距離感を掴むことが不得意である。離れすぎていたり,近づきすぎてしまう。しかもそれでいて寂しがり屋なのである。胸が苦しくなることがよくある。そんな自分が嫌でいっそ孤独に存分に浸りたいと思った。そして人間関係というものの再構築をしたいと思った。
今回のインド旅行は一人旅である。孤独である。異邦人になることは孤独になるということである。そして,この孤独をどう見るか。それはたぶん自分次第だろうと思う。異国の地で果てる自分であったらその程度の人間だったということでいささか自分にとってドライにならなければならないように感じる。
3.インド哲学に漠然とした興味があったから
これはすごく後付け的な理由に他ならない。⑴,⑵の理由を完遂するためには何もインドでなくてもよいではないか。そのために規範が違い,孤独になれるが少しばかり自分に興味があるものといえばインドであった。
旅の日記
以下は旅の日記である。
なるべくその日にその日の出来事・自己の心情を記録しようと頑張った。
今振り返ってみると拙い文章や支離滅裂な展開で非常に読みにくいが,校正するほどのものでもなく,またこの方が当時の心境を荒唐無稽でもさらけ出せると感ずる。
旅の前日(9/4)
旅の前日は台風がやってきた。
記録破りだ。
気象衛星ひまわりでさえ観測すらも出来ないやつだ。
京都の古い大木も倒され,根こそぎ飛ばされてしまったそうだ。
そんなものすごい台風が札幌にやってくるのかと心を揺さぶられた。
インド旅行の最高難易度だったと言っても過言でないと思う。
旅の用意はもう終えた。
あまり荷物はない。宵越しの銭は持たない主義だ。
クスリ,一切れのパン,パスポート,ビザ,パンツ。
本は2冊持っていく。
列車の中ででも読めればいいと思う。
外では強いけれども,生ぬるい風が吹いている。
南風だ。シュールな夢を見ていたくなる。
平成最後の夏は僕をどこに運んでいくのだろう。
1日目(9/5)
僕は今,デリー行きのボーイング787に乗っていろいろなことを思い出している。
例えば今日の朝に出来事。
案の定JRは運休し,タクシーで空港まで向かう。
タクシー代がデリーからコルカタまでの飛行機代より高いのはなんともシニカルだ。
ブルーハーツの「1000のバイオリン」を聴いていると僕は成田にたどり着いた。
そして無事にインドへの切符を入手,これから7時間のフライトに向かう。
とまあ以上のような過程を踏んで僕はデリー行きのボーイング787に乗っているのだ。
しかし,途中で気分が悪くなった。
ハイボールとカレーの付け合せはあまり良くないらしい。
意識が朦朧とした。
蓋し,これは奇跡に近いのではないか。
我ながらバカだと思いながら,僕は神様–インド流ではGaṅgā–の存在を信じたくなったし,感謝したいと思った。
Gaṅgāはガンジス川の女神だ。
ガンジス川の女神ということはインドの魂と言っても過言ではないだろう。
これはGaṅgāの導きである。
神様というと冷たい夜風に当たり,パフェを食べるために4時間並んだS.Y.さんとの「かみさま」の話を思い出さずにはいられない。
2人の「かみさま」の認識は異なるように見えたが,何かをつかめたような気がした。
しかし「それ」が分かると感傷に浸ってしまったような気がする。
シャーテリーアの教義に従えば,「あれはそれ,汝は我」なのだから。
2日目(9/6)
昨日外で食べたよくわからんやつ(DADELIっていうらしい)が辛すぎて起きてしまった。
そしたら何かがおかしい。
北海道が地震で大きな被害が発生しているのだ。
台風が去って地震とは。平成最後は間違いなく飢饉だ。
幸いにも家族・友達に連絡がついたからホッとした。
インドに行くときは心配されたが,インドに行った途端北海道の心配をしなければならなくなったのはなんともやるせない。
しかし同時に,デリーに滞在してなにもできない無力感を抱えた。
ハレ・クリシュナのご加護があらんことを。
さて。
宿を出て僕はデリーのメトロに乗ろうと思った。
当然駅に行くには「足」が必要だ。
そうリキシャーである。
始めて僕はリキシャーに交渉しなければならなかった。
リキシャーマンはいい人に見えたがなにやら雲行きが怪しい。
シャディプール駅に行くと言ったのになぜかコンノートプレイスに向かっている。
そう。僕はハメられたのだ。
↑リキシャーの兄ちゃん。彼に騙された。
彼は僕にインフォメーションセンターなるものに案内した。
壁にはおそらくここを利用したであろう人たちの感謝の言葉がぎっしりと並べられていた。
英語,日本語が多いが,中にはスペイン語もあった。
情報屋のおじさんは僕の旅程を見るなりそれに合うようなツアーを組んできた。
しかも58,000ルピー。
日本円にして110,000円といったところか。
ピンときてしまった。
リキシャーマンが案内したインフォメーションセンターなるものは悪徳旅行会社であり,壁に書かれていた無数の感謝の言葉は彼らが騙した「功績」だったのである。
そこそこまずい状況に追い込まれているのは容易に想像できるだろう。
そこで僕は,とにかく値切った。値切りまくったのだ。
「学生でそんなお金はない」ということで,まずは37,500ルピー(65,000円)に。
そして「コルカタへの飛行機がもうすぐ飛ぶ」というトンチンカンな理由から10,000ルピー(15,000円)にした。
個人的には乗り切ったということで何か湧き上がるものを感じた。
むしろ結果的に欲しかった「バラナシ→アグラ」,「デリー↔︎アムリットサル」のチケットが買えたから満足さえしているのだ。
インド人との交渉には根気と運が必要である。
コルカタに降り立った僕を待ち受けていたのはタクシーの高額なチップだった。
結局1000ルピーを費やすはめになった。
まさにコルカタの「洗礼」が僕に浴びせられた。
3日目(9/7)
Kolkataという街は帝国時代の首都(Calcutta)であった場所である。
KolkataはまさにCalcuttaであった。
インド博物館やヴィクトリア記念堂にはいたるところにパクス・ブリタニカの匂いというものがしみ残っていた。
↑インド博物館(上)とヴィクトリア記念堂(下)
僕は洗濯物のオーダーをするのにも手こずった。
それはコルカタの英語がなまじイギリス英語だからなのかもしれない。
コルカタの街を散策した。
ただただ歩いた。
そこではやはりインド特有の喧騒が僕を包んだ。
コルカタで特に目を引いたのは乞食の多さである。
乞食を目の当たりにした日本人はあまりいないのではないか。
物を恵んでやるべきかと悩んでしまった。
悩まざるを得ない。
しかし思う。これは甚だしい傲慢であると。
自論として,日常の中に溶け込んでいるコルカタの人間なら問題ないのだが,たかが観光に来ただけの「先進国からの異邦人」が物を恵んでやるというのは,何か慎重にならなければならないのだ。
本当にその行動が舎利のつもりで行なっているのか。考えればいい。
それが観光気分によるものであればカーストをぞんざいに扱っているものだろう。
思わず「正義」とはなんなのかと考えたくなる。
法哲学者はよく正義をただ一つの真実であると考える嫌いがあるが,僕はそう思わない。
このように言える人間はリアルを見ていない,概念上の戯言で終わる人間なのだ。
さて。
話がだいぶ逸れたが,「異邦人」になる目的とはなんだろうか。
ある人は「自分を見つけるため」と言うだろう。
では「自分」とはなんだろう。
それは「自分以外のものでない」ものというテーゼに還元されてしまい,結局は自分というものは「他者ではないもの」に他ならないのではなかろうか。
ヤージュニャヴァルキアの教義に「非ず,非ず」の哲学,というものがある。
これは自己であるātmanは確かに存在するのだがātmanそれ自体は自己以外のあらゆる事物の否定形によって形成される,というものである。
これに従えば,結局「自分探し」なぞというものはまやかしに過ぎず,「自分」というものは「他者以外のもの」であり,結局は「自分と他人は違う」ということしか確認できないのではないだろうか。
それはリストカットに似ている。
それはリストカットよりもえぐい傷を残す。
リストカットは自傷行為によって生を実感するものだが「自分探し」は結局自分は見つからずに生を実感できないまま終わる。
非常に過酷なものである。
僕が考える「異邦人」とは「自由になること」そのものである。
これは社会不適合者とほぼ同じ意味合いだと理解している。
自由になるためにはそれなりの代償を払わなければならない。
例えば言語の違い,社会規範の違い。
また,これらに慣れて社会に溶け込んでしまったらまたアイロニーにより自由を手に入れなければならないのは「異邦人」の宿命である。
「異邦人」になるということは死ぬまで旅人であり続けることなのである。
とても厳しいがこれこそ「自己ātman」に極限に近づく方法だと感ずる。
4日目(9/8)
バラナシへの夜行列車に乗っている。
40分遅れだ。インドの鉄道にしては優秀だろう。
今日は寺巡りをした。
インドの神様たちに会うのだ。
↑町にはこのように神が祀ってある。
最初に出会ったのがカーリー神。
シヴァの第3妻で,最恐の鬼嫁である。
カーリーの寺では羊の首を供物にして皆が祈るのだ。
考えてみれば奇妙だ。
なぜ破壊神を祀り上げ,祈るのだろうか。
そのあとは2時間ぐらい歩き,ビルラ寺院を回った。
そこではヴィシヌ,シヴァ,クリシュナ,ガネーシャなどインドの神々が祀ってあった。
彼らに会いに全国から来るようだ。
憩いの場にもなっていた。
あらためて,インドに圧倒された。
第1に寺のスケール。
純粋な壮大さだ。
日本では伊勢神宮や出雲大社が大きな寺社の代表格だが,これに勝るとも劣らない。
壮大さとあいまる寛大さも魅力の一つだ。
ビルラ寺院はデートスポットだったし,ゆっくりくつろいでいた。
多かれ少なかれ心の拠り所なのだろう。
第2に,熱狂さ。
これはカーリーの寺で特に顕著だった。
熱狂して祈りを捧げているのだ。
これは日本ではあまり見ない。
なぜ破壊神に熱狂して祈るのだろうか。
恐らく純粋な祈りだけではなく,そこには観光客を騙そうとしたり,高額の寄付を要求して来る人がいたり,欲望の渦なのである。
これほど強烈な寺は日本にはないかもしれない。
↑ビルラー寺院にて。
今日はコルカタの,帝国ではない姿を見た。
そこでは欲望が渦を巻き人々は活気に満ち溢れていた。
コルカタは嫌いになれない街であった。
こんなふうに僕は夜行列車の中でコルカタを回想した。
夜行列車は初めてであったが,慣れればどうということはない。
僕の列車には僧侶がいて,彼に騙されかけた。
しかし彼もなかなかいい人らしく,なぜ僕を騙そうとしたのかわからない。
コルカタの歩き方がわかって,インドがわかったと思ったらそれは大間違いであった。
僕はインドについて何もわかっていないのかもしれない。
5日目(9/10昼)
安宿の暮らしは退廃的なものである。
↑服を水で洗って干すとすぐ乾く。靴下が下に落ちた。
クレジットカードがロックされていて,インド旅行がすごくハードなものになりかけた。
ひとまずガンガーへ行かねばということで,外に出た。
昨日はプージャを見た。
日本のお経のようなものである。
サンスクリット語で言っているらしいが,僕はプルシャ,ブラーフマナしか聞き取れなかった。
↑プージャ。
プージャから帰る途中,僕は日本語を話すインド人に声をかけられた。
なんでも,日本語を専門学校で勉強しているらしく,日本語も堪能である。
関西弁もわかっている。
コルカタに引き続き,僕は彼に賭けてみることにした。
ベットは僕の命である。
バラナシはコルカタと違い,入り組んだ道が多くて素人が一度迷ったら帰って来るのは困難である。
彼は僕と会話をしながらするすると小さい道を通っていく。
まるで自分の庭のように,である。
バラナシの牛の糞と人の匂い,そして肌に張り付くような暑さが僕を包んだ。
結論から言うと,僕のかけは大当たりだった。
彼は僕に美味しいガーリックナンを食べさせてくれて,それにアグラからジャイプールまでの切符を手配してくれた。
おまけに,キャッシュ機能がない僕のクレジットカードから現金を捻出してくれた。
これでお金の心配は無用だ。
これだけでも彼は僕によくしてくれたのに,ダメ出しが出た。
なんとも,ヒマラヤで修行を積んで,手相占いをしてくれるお坊さんにあわせてくれるのだそうだ。
僕は半信半疑だった。
あまり手相占いを信じていなかったからだ。
細く,入り組んだ道を通り僕らは音楽教室に来た。
シタールやタンブーラが置いてある。
レフティのものもあった。
5分ぐらいすると,お坊さんが出て来た。
なんてことない,デリーを15分歩いたら50人はいそうな感じの男である。
僕は彼に右手を差し出した。
まず僕の過去のことから彼は話した。
僕が過去2人の女性に振られたこと(15歳,18歳)。
16~18の間に何か人生の転換があったこと(京都大不合格)。
8歳~12の間に大きな病気や事故があった(10歳の時に交通事故)。
全て当たっているのだ。
冷や汗が出た。
本当に手相でこんなことがわかる人間がいるとは。
そして彼は未来のことを話した。
27~29の間に結婚すること。
3人の子供を持つこと。
孫と一緒に旅行をすること。
交通事故で頭か足を負傷すること。
人生のゴールデンタイムが28~38であること。
今考えている進路が自分にとって良いこと(「だってお前本読んだり書いたりすること好きやろ?」みたいな感じで言われた)。
とても徳の高い人だった。
これほどすごいと思った人はいない。
そのあと,シタール奏者が来た。
今日稽古をつけてくれた先生だが,彼はかのラヴィ・シャンカールの弟子でで,インドの首相にも表彰されたことがある。写真が飾ってあった。
シタールの演奏を生で初めて聞いた。
僕と彼しかいない,独占コンサートなのだ。
↑シタールを弾く先生
僕はそこに日付をまたぐまでいた。
宿はしまっていた。
バラナシの初夜は,野良犬の喧騒と,うだるような暑さが僕を包んだが,バラナシに想いを馳せた。
6日目(9/10夜)
バラナシが恋しい。
明日離れると思うと寂しくなる。
バラナシという街は道が細く入り組んでいる。
おまけに野良牛が道を占領していて初めて街を歩くものには混乱してしまうだろう。
僕もそうだった。
しかしバラナシがインドの源だとはっきりわかる。
それは人である。
様々な欲望が渦巻く社会。
それは数学的に言えば「カオス」と呼べるかもしれない。
端的に言うとバラナシは「カオスの淵」である。
カオスの淵ほど複雑な社会システム–秩序とも呼ばれる–はない。
午前はシタールを先生から教わった。
結構自由に触らしてくれて,音階と基本のリズムを教わったらあとは熱狂するように操ればいいということなのだろうか。
ギターのツーフィンガーの要領でやって見たら意外と弾けた。
もちろんルールは他にもあるが,意外に弾けるものだ。
欲しくなってしまった。
が,貧乏学生には高すぎる。
またの機会にしよう。
午後は旧市街をブラブラした。
少し要領がわかって来たので,グーグルマップを使いながら街を歩いた。
すると,「ハッパいる?」と声をかけられた。
今まで「チョコいる?」と4回ぐらい言われたがこれはハッパの意味だったのかとその時初めて気付かされた。
我ながら鈍感である。
さて,明日は豊饒の海に出向き,物思いにふけるか。
それとも…
7日目(9/11)
これからアグラへの夜行列車に乗る。
バラナシは寺巡りこそしなかったもののインドの核心に触れられたのではないかと思う。
↑夜行列車は基本的に暇だから本を持って行くと良い。
僕は5時に起きてガンジス川で朝日を見ようとしたが,30分寝坊してしまった。
寝起きながらもたどり着くと,沐浴している人がちらほらといた。
中には飛び込んで泳ぐおじいさんもいた。
そう。ガンジス川はインドの命なのだ。
そこでは火葬場があり,灰になれば流される。
彼らにとっての幸福なのだ。
三島由紀夫はガンジス川を「豊饒の海」と呼んだに違いないが,それは命の豊饒であると感ずる。
生は輪廻転生する。
それは無常か。
インド人になぜ破壊神シヴァを祀るのか聞いた。
彼はこう言った。
破壊しなければ新しいものは生まれない。
All Things Must Pass Away
だが太陽は向こうに沈み,そしてまたこちらからやってくる。
僕はそう思う。
↑ガンジス川から見る日の出
補足:8日目(9/12)
電車は6時間遅れでアグラに着いた。
アグラはバラナシとは違いのどかな街である。
まずはシャワーを浴びたかったので適当な宿を抑えて荷物も預けた。
宿の人がいいリキシャーマンを呼んだとのことで僕はそれに乗った。
勘のいい人はわかると思うがこのテのリキシャーは良くない。
そしてそれは当たった。
彼はタージマハルとアグラ城に連れていってくれたが,その後にお土産やさんに連れていかれた。
本当にいい人はそんなことをしない。
僕はひどく疲れてしまった。
インドは哲学や音楽など好きなところはあるし,インド人の親しさもたまに嬉しくなる。
しかし観光客をカモにするのは頂けない。
おまけにチップも要求してきた。
もうヘトヘトになった僕は駅に向かった。
ジャイプルへの列車に乗るためだ。
しかしなかなか列車が来ない。
僕はひどくため息をついた。
焦燥感と多少のやるせなさのこもったため息である。
この時がとても心が弱くなっていた時であると思う。
なんとか日付をまたぐ前にジャイプルに着いた。
しかしここからダメ出しの一撃。
宿が汚すぎるのだ。
虫はウジャウジャわくし水は出ない。ベッドも汚れている。
これで600ルピー(1,000円)はその時の僕には正直こたえた。
旅が終盤になり,ここからが本当の戦いであると痛感した。
これ以上書くとインドが嫌いになるので筆を休めることにしておく。
↑タージマハル(上)とアグラ城(下)
補足:9日目(9/13)
昨日の宿が受け付けられなかったのでリキシャーの兄ちゃんに1,000ルピー(1,800円)ぐらいでいい宿を紹介してもらった。
なかなかいい宿でクーラーも付いているし1,000ルピーの割にはトイレットペーパーや石鹸もある。
僕は彼のことをすっかり信用してしまった。
そして彼が「お金はいくらでもいいから今日は一緒にいたい」と言ってきた。
今考えると軽率で愚鈍な選択だったが,精神的に限界だったことを考えるとしょうがないのかもしれない。
彼は「俺のことをブラザーって呼べ」と言ってきた。
本当にフレンドリーで,有名なラッシー屋さんに連れていってくれたり,昼食にも連れていってくれたりした。
風の宮殿や水に宮殿を観光したりした。
雲行きが怪しくなったのはそれからである。
彼は僕が行きたがらないとわかっていたおみやげ屋さんめぐりをしてきた。
宝石・絵画・服・絨毯などなど。
全部お金がないと言って断った。
インド人は日本人である僕がお金を持っていると思っているからなかなか食い下がらない。
しかし現実に僕はお金がないのだ。
一軒20分ぐらい粘られてヘトヘトになって「ホテルに帰りたい」と彼に言った。
そしてホテルに着いた時彼は「明日も含めて3,000ルピー(4,700円)ね」と言ってきた。
僕は堪忍袋の尾が切れた。
冗談じゃないと。
バスを使えば50ルピー(90円)で回れるのにどうして50倍のレートをしなければならないのか。
結局今日だけということで1,500ルピー(2,500円)と調停した。
今(9/14)書いてしみじみ思うが,1,000ルピー(1,600円)あればどれほど楽に旅を終えられるだろうか。
人を信じることがなかなかできなくなりそうで怖い。
10日目(9/14)
しばらく列車の移動や精神的な問題で日記を書くのを忘れてしまった。
空いている日にちは帰国して補足として加えようと思う。
概観すると,空いた日にち(8,9日目)は
8日目:アグラに昼着き,4時間ぐらいでアグラを観光し,ジャイプールへの列車に乗った
9日目:ジャイプルでリキシャーマンに出し抜かれた
とこのような感じである。
今はデリー行きの列車に乗っている。
列車は夜行列車ではなく,椅子がある。
ご飯も付いていた。
今日はジャイプルの街を歩き回った。
やはり街は歩いて見ないとわからない。
こっちの方が僕の性分にも合う。
歩きながら観光地を巡ったのだが,バラナシやアグラよりも西洋人が多い。
お金を持っていない僕よりもお金をばらまいてほしい。
観光客はかなり裕福な層なのだろうか。
心なしか肉つきがいい。
移動も全てリキシャーなのだろう。
それを感じ取ってますます僕は歩いて観光めぐりをする気になった。
今思うとすごく惨めなのだが,彼らに対してささやかな対抗心があったのだ。
僕は贅肉は剥がしたいと思う人間だ。
今回の旅の目的の一つでもある。
ポジションを固定したくないし,様々な匂いを嗅ぎ,様々な景色を見てみたい。
昨日のこともあってジャイプルはあまり好きにはなれなかった。
バラナシがすごく「インドっぽさ」を放っていたので尚更だが,ジャイプルはインドの割には整然としており,ピンクシティは可愛い街だ。
日本の年に例えるなら京都だろう。
好きになれなかったもののジャイプルの観光名所はよかった。
まさに観光する街である。
しかし観光しかできなかったのが僕にとっては刺激が足りなかったというか,物足りなさを与えた。
もしかしたら僕は「贅沢・裕福」という言葉からかけ離れた人間になったのかもしれない。
しかし日本はインドから見れば「贅沢・裕福」な国だ。
行政は一定の生活保護を行なっているし,水道水も安心して飲むことができる。
このジレンマ(と呼ばれうるもの)をどのように克服するべきか。
今日はニューデリー駅で野宿をするつもりだ。
それくらいお金の問題は深刻なのだ。
なんとか頑張って生き抜いてみせようとは思っている(インドは治安が良くないといってもみんなダラダラ駅の中で寝ている)が,のたれ死んだらそれまでの人生であったと腹は括ってある。
自分さえ守れない人間が他の人間を守ることができようか。
11日目(9/15)
ゆーてデリーはそんなに危険じゃない。
↑ニューデリー駅(上)とバザルストリート(下)。ここで寝泊まりした。
12日目(9/16)
夕方から国境ではセレモニーが行われているらしい。
それに参加してみた。
インド側はかなりの人が来ている。
ダンスミュージックも流れているし,まさにお祭り騒ぎ。
僕ら日本人が大抵国境と聞いて思い浮かべるのは韓国・北朝鮮のものではないだろうか。
僕はあれはかなり緊迫しているようにおもえていたので国境に行くことはいささか緊張していた。
しかしいざ来てみると,拍子抜けというか,足元をすくわれた気持ちになった。
日本では疎遠になりがちな「ナショナリズム」の熱狂を体で味わった。
↑ワーガ国境の向こう側にはパキスタン国旗(上)。国境では印パ両軍が煽り合いのセレモニー(中)。日の入りとインド国旗(下)
今夜はシーク教の聖地・ゴールデンテンプルに泊まる。
シーク教とは,世界史をかじっている人間なら知っていると思うが,ターバンを巻く宗教である。
かなり武術に長けているのはイスラームやヒンドゥー教勢力との攻防のためである。
ゴールデンテンプルは無料でご飯も提供しており,宿泊もできる。
まさにお金がない僕にとっては天国のようなところだ。
実際に夜のライトアップされた寺を見てみると,–もし読んでいる人がディズニー好きなら申し訳ないが–ディズニーランド顔負けである。
おそらくここがシーク教にとっての天国なんだなと感じられずにはいられない。
↑インド人は写真を撮られるのが大好きだ(上)。シーク教徒も例外ではなく,「俺を撮れ」とばかりに武器を見せつけてくる。黄金寺院(下)。この中に入るのに3時間は並ぶという。
しかし,食と住が無料で賄えるということはそれはその宗教に飼いならされてしまうんじゃないかと僕なんかは思ってしまう。
あまりにも幻想的かつ熱狂的すぎて僕はメクラになってしまうんじゃないかとも思ってしまう。
僕は「異邦人になること」とはどういうことなのかということを知りたいがためにインドに来た。
しかし一度日本の規範から自由になったとしてもこのように飼いならされて,規範を受容してしまったらそれはナンセンスになるんじゃないか。
あくまで自由を求めるということは何か「箱」のようなものから抜け出すために起こす行動であり「箱」から出た「異邦人」はまた違う「箱」に入らなければならないのか。
だとしたら自由を求めることはある種の限界があり,トートロジーになりさえするのではないかと思ってしまう。
13日目(9/17)
アムリトサルからデリーに向かう電車で日記を書いている。
明日の夜の便で僕は帰国する。
2週間という旅は長かったようにお思えるし短かったようにも思える。
しかし今回に関しては2週間が予算ギリギリだったと痛感している。
今日はゴールデンテンプルのまわりを囲う池で沐浴をした。
初めて沐浴をしたが気持ちよかった。
インドに来てからお風呂というものにてんで巡り合わなかったためどこか懐かしさも感じたのかもしれない。
日本に帰ったらとりあえず爪を切りたい。
これが大きい。
好きな人に告白しようとか,そんなことよりもこっちの思いが大きいのは何とも面白い。
北海道はもう寒いという。
季節は巡って秋だ。
もう夏は終わったのである。
僕にとっての平成最後の夏は,僕を惑わせるものだった。
楽しかった思い出は確かに大きいが,これほど苦悩したことはない夏だった。
この苦悩を予測していたかのように僕はインド旅行を初夏に計画し,そして夏から逃げるように僕はインドに飛んだ。
インドは知覚量が日本よりも圧倒的に多い。
豊饒の海である。
最初はここで生きていくことができるかと懸念したものだ。
道路を横断することすら危ない行為であったからだ。
かなりリスキーな旅だったと実感する。
おそらく日本で起こりうる大体の惨事は冷静に対処できるんじゃないかという自信すら僕に与える。
豊饒の海と僕は三島由紀夫に倣ってインドをこのように題したわけだが,僕が何を豊饒としているか。
⑴前述した知覚量は言わずもがなである。
踊っている人や怒号を発する人,はたまた嘘つきの僧侶や乞食まで,インドは一箇所に様々な人たちが集まる。
駅のプラットホームなんかはまさに典型例である。
社会的正義や資源の再分配の話は置いておくとして,これは日本ではいい意味でも悪い意味でも見られない。
ホームレスは物乞いをせずに橋の下で集まって暮らすし,学歴をはじめとした社会階層により少なからず分断が地理的にも生じている。
小ぎれいな部分しか僕には見えない。
⑵⑴に付随した人間の温かさ
いろんな人が一箇所に集まっているからこそ何か,日本では見られないものが見えてくると思う。
電車の中を見ていると,とても仲良く話しているインド人はよく見かける。
でも彼らは全然知り合いではないのだ。
これは彼らの国民性なのか。
しかし僕はこれが苦手なのだ。
最近になってわかって来た。
インドが好きになるか嫌いになるかのボーダーは意外にもこれかもしれないとすら思う。
日頃僕とかかわっている人間なら知っていると思うが,僕は排他的な人間だ。
基本的にワガママなので話したい時に話すタチだ。
しかしインド人は違う。
僕が日本人なのでなおさら話しかけてくる。
親切で話しかけてくれてるのはわかっているが,旅の後半からこれがじわじわと僕の精神を削って行った。
結果的にネガティブにインドを書いてしまったが,僕はこの旅をして良かったと思っている。
日本の良いところや悪いところを見つけられたのも理由に挙げられるが,何よりも僕がいろんな人と会いたいと思ったことである。
すごく苦しくなって,人肌が恋しいと感じた日もある。
これは上記と逆説的に聞こえるかもしれないが,そうなのである。
豊饒の海を泳ぎ渡り国に帰る。
その時僕の目には身の回りのあらゆる物事がどのように写って,逆にどのように写像されるのだろうか。
14日目(9/18)
ニューデリー駅で野宿をして,朝7時からデリー内を散策した。
空が明るくなってきたとき太陽の破片が僕の頬を伝った。
治安が良いとは言えない国の駅で野宿できたなら僕は日本のどこでも寝ることができるかもしれない。
幸いにもデリーは標識が多いから,それを目指せば目的地までなんとかたどり着ける。
コンノートプレイスの一角にリキ・ラームという楽器屋さんがある。
そこはビートルズが訪ね,ジョージがシタールを買っていった店だという。
いざ行ってみると今日は休みだったらしくて少し悲しかった。
ビルラー寺院ではガイドについていく中年の日本人達を見かけ,なんだかえもいえぬような苛立ちを覚えた。
この理不尽な苛立ちは自分が嫌悪しているものであるのに抑えることができなかった。
この苛立ちを消したいように僕は彼ら相手に取り巻いているお土産を売る人たちを笑ったり,どう見ても寺の前で売るものではないし,絶対に売れないようなバッグを売っているおじさんに「今日は何個売れたの?」なんて嘲笑してみたりして暇を潰した。
しかし僕はいよいよ体力が肉体的・精神的に共に限界を迎えていたから空港に向かった。
今は空港のラウンジでこれを書いている。
カウンターまでにはまだいけない。
アーミーが通してくれないのだ。
どうやら空港の混雑を防ぐ意図があるらしいのだが,これでは逆効果のように思う。
空港に着いたのでシャワーを浴びた。
いやはや3日ぶりである。
しかもホットシャワーでこれは5日ぶり。
体にまとわりついていた汗は落ち,今は清らかな気持ちである。
巡った都市
今回のインド旅行では6都市を巡った。
それぞれの街に特徴があり楽しかった。
とても簡単にではあるが説明していこうと思う。
なお,時間や技術の都合で街の写真を貼る余裕がない。
見たかったらコメントして頂けば幸いである。
デリー(Delhi)
首都ニューデリーを中心として,インドの経済・政治・文化の中心地。
大抵の旅行者がここから出発するが,それ故にとても危うい場所でもある。
それはつまりこのようなことである。
インドを初めて旅する人間は勝手が分からぬままリキシャーの連れられるがままに旅行会社に連れていかれ,法外な額のツアーを組まされる。
一見彼らは優しいように見えるが,それはまやかしである。
僕もやられたので連れていかれたら逃げるほかない。
しかしデリーは悪いところばかりではないという。
僕はデリーをあまり観光しなかったが確かにメトロが走っていて移動にはリキシャーを使わなくても良い。ただしこれには「慣れ」が必要である。
ニューデリー駅を出たメインストリートは安宿街。
大阪でいえば西成区のようなものか。
ニューデリー駅を下って開けるコンノートプレイスにはマクドが4件ある。
見たところ
①ニューデリー駅
インド最大規模の鉄道駅。
ここを歩くだけでもインドに来たと感じることができるだろう。
②コンノートプレイス
デリーの中心部。
少し南に行くと国会議事堂や首相官邸があり,日本で言う丸の内のようなものだろう。
③ビルラー寺院
ヒンドゥー今日のお寺。
豪華。
コルカタ(Kolkata)
コルカタは帝国時代の首都であり,デリーが東京だとすればコルカタはまさに大阪だろう。
インド第2の都市といっても過言ではない。
街は主な通りを頭に叩き込みグーグルマップを見れば目的地にたどり着くことができる。
牛はいない。ビーフカレーが食べられる。
地下鉄が通っていて,リキシャーなしでもある程度は回ることができる。
見たところ
①インド博物館
アジア最大級の博物館。
大きさはもとより展示品もなかなかのものである。
②ヴィクトリア記念堂
ヴィクトリア女王を讃える講堂で,大英帝国が開発していったコルカタの歴史が展示されている。
③カーリー女神寺院
鬼妻カーリーが祀ってある。
お供え物としてヒツジやヤギの首がささげられる。
外国人観光客はここでよくぼったくられる。
④ビルラ寺院
デリーにもあったが,こちらの方が素晴らしい。
バラナシ(Varanasi)
インドの源と呼べるような街。
個人的に1番好きな街。
細くて複雑な道なので素人にはグーグルマップがないとまず無理。
ガンジス川に面し夕方には神への式典(プージャ)も行われる。
僕がきた時はホーリーだったせいか,とても混んでいた。
また死んだ人をガンジス川に流すための火葬場も見られる。
日の出とともにガンジス川(ガート)に行くと沐浴している人々を眺めることができ,またガンジス川から眺める日の出は涙が出てしまう。
もちろんバラナシはそれだけではなく,絨毯屋もあるし絹の名産としても有名。
楽器やヨガも習える。
麻薬を売ってこようとする人がたくさんいるので要注意。
見たところ
①ガンジス川(ガンガー)
いわずと知れた「世界の底」。
もちろん火葬場もあり,子供は仮想しないまま川に沈めるという。
夕方にはプージャと言われる儀式が始まり,お坊さんがお経を読む。
②バラナス・ヒンディー大学(BHU)
北大の2倍ぐらいの広さがある大学。
※ひたすらシタールを練習していたのであまり観光しなかった。
アグラ(Agra)
かのムガル帝国の黄金期の首都。
街は静か。
何人かの日本人に聞いたら「1日観光すれば十分」とのこと。
見たところ
①タージマハル
シャー・ジャハーン帝が自分の妃のために建てたお墓。
観光名所になっているとは思いもよらないだろう。
外国人観光客はこれを見るために1,100ルピーを払わなければならない。
②アグラ城
面白いと思ったらあまり面白くなかった。
リスがいる。
ジャイプール(Jaipur)
ピンクシティが可愛い。
インドの京都。
マハラジャが作った。
歩道とゴミ箱があり,街は綺麗。
京都と同じように碁盤の目をしている。
バスがかなり走っているからそれに乗れば1日100ルピー(160円)未満で観光地を回れる。
見たところ
①中央博物館(アルバート・ホール)
②風の宮殿
楽しい。
外見は立派なのに中はぺらっぺらの宮殿。
しかしそこから見るピンクシティーの眺めは最高。
③水の宮殿
有用性がなくて残念な宮殿。
④アンベール城
ピクニックにちょうど良い。
⑤ジャイガル要塞
⑥ジャンタル・マンタル
楽しい天文台。
アムリトサル(Amritsar)
インド北西部・パンジャーブ地方の街で,古くからの貿易の要衝。
見たところ
①黄金寺院
夜のライトアップは圧巻で,ディズニーランドがいらなくなる寺。
ご飯と寝床が無料で提供される。
②ワーガ国境
パキスタンとの国境。
毎日セレモニーが催され,印パの煽り合戦が見れる。
旅中で読んだ本
最後に,旅中で読んだ本を紹介しよう。
インドの旅の足はほとんど鉄道で,時間が余る。
そのため僕は2冊の本を持参した。
マックス・ウェーバー『職業としての学問』
この本は法学部の集中講義にて,法学研究科教授の尾崎さんが紹介していた本である。
題名通り,職業として学問を選んだ人間の使命・覚悟が綴ってある。
この本を読んだのはデリー~アムリトサルの往復と空港で暇だったときである。
ウェーバー特有の小難しい表現はこの本にも例外なく入っており,挫折こそしなかったものの読むのに駅碧するときは少なからずあった。
しかしながら先日の尾崎さんのお話を思い起こしながら読んでいるとこの本と同じことが書いてあると言うのもあり楽しんで読めた。
この本(講演)でウェーバーは大きく3つのことを語っている。
それぞれ順に見ていこう。
①大学の就職は運である
これは大学の研究者は皆言う言葉だ。
自分よりも凡才が次々と就職することに耐えられるか。
これが最初の試練だと彼は問うている。
主に彼はドイツとアメリカの大学システムの違いをあげて専らドイツの就職事情を議論しているが,さて日本は。
②学問はただただ事実を記述するだけにとどまる
ウェーバーと言えば周知の通り「脱魔術化」により資本主義社会を議論した人間。
学問に救いを求めてはならないのだ。
③科学的な事実と個人の価値判断を隔離しなければならない
ウェーバーは,大学の先生はあくまで「教師」であり「指導者」であってはならないと言う。
これは彼の真摯な学問の姿勢が垣間見えるか。
三島由紀夫『潮騒』
もともと『豊饒の海』を持っていく予定だったが,4巻もあり挫折した。
代わりに持参したこの『潮騒』はとても読みやすく,いささか難解な箇所が見当たらない。
それゆえに『金閣寺』や『花盛りの森・憂国』などを読んできた三島読者にとっては悩ましい作品であることは言うまでもない。
登場人物も主人公・ヒロイン・悪者と固定していてそれらが崩れることはなく,何かギリシア神話でも読んでいるのかと思いたくもなる。
僕は134ページ(新潮文庫)の最後の文章が「未知の」旅をしている自分に重ね合わさり感極まった。
終わりに
以上で,今回のインド旅行の紹介を終わろうと思う。
この記事を読んでインド旅行してみたいと思った人は多分いないであろうが,万が一思ってしまった人は,何か質問があれば答えるので遠慮しないでほしい。