〈教養〉
〈教養〉の意義
今日,図書館で友達に「教養があるね」と言われた。
素直に嬉しい。
どういう話が元になったのか忘れたが,確かモースの有名な『贈与論』の話になっていた気がする。
モースが部族社会といった非近代社会における贈与に基づいた社会構造を称賛したものだ。
マオリ族の社会では「ハウ」という霊的な存在が物に宿るというので他者に分け与えるそうだ。
そうすることにより自分だけが大きな富を独占することを回避するという。
自慢ではないが僕はたまたま『贈与論』を知っていたからそれなりの説明ができた。
このことにより僕は「教養があるね」と評価された。
もちろんそれだけではこの評価を下すことはできなかったと思う。
自分の日々の様々な言動を素材に,他者が,経験的に,評価していく。
今日,帰りに本屋に寄った。
2階にあるレジの向かいにある話題書コーナを見てみた。
そこでは知識が欲しそうな人が好きそうな本が平積みになってあった。
中には気になる本もあったが(岡本祐一朗『いま世界の哲学者が考えていること』の続編が出たというのは知らなかった),まさに〈教養〉が欲しい人向けに書かれた本がおいてあり,僕は苦笑いをしてしまった。
この本を読めば365日で〈教養〉がつくそうだ。
数ページ本をめくってみたが,どうも〈教養〉がつくように思えない。
今日たまたまこの2つの出来事が重なったから〈教養〉はどのように身につくのか,自分なりに考えてみた。
もちろんその本を読むことが〈教養〉を身につける方法だとは思えない。
ここで言う〈教養〉とは,「精神文化一般に対する理解と知識をもち,人間的諸能力が全体的,調和的に発達している状態」を指し,辞書的な「教養」の定義に沿うものであると定義しておく。
なぜ自明な言葉を定義するのか。
それは「教養」という言葉自体の多義性に帰着できよう。
話を『贈与論』に戻そう。
僕がなぜ『贈与論』をある程度知っていたかと種明かしすると,本を読んで勉強している中で,あるいは気ままな読書の中で,度々出てきたからだ。
久保明教『機械カニバリズム』(講談社選書メチエ)の中で,あるいはゼミ(小坂井敏晶『神の亡霊』(東京大学出版会))の中で,そしてあるいは平川克美『21世紀の楕円幻想論」(ミシマ社)の中で。
このように様々な本を読み,あるいは社会規範の勉強をしていくうちに『贈与論』が大事なんだなと認識し,理解したのだ。
ここにおいて僕は〈教養〉を全く意識していなかった。
すなわち,以上の勉強における収穫は,僕が,⑴マオリ族における非近代社会においては「ハウ」というフィクションを社会構成員内部で共通の規範要素として相互的に取り入れ,ハウがそれぞれの関係の中での第三者の審級として機能している,ということを理解し,⑵その上で我々の社会を考えるための布石を得た以上の意味は何も持たないのだ。
大人気ない対応
もう1つ馬鹿馬鹿しい話をしよう。
先日,母と口喧嘩をした。
僕に非はないのだが,どうやら言っていることが気に入らなかったらしい。
ブルドゥーの文化資本の話をしていて,「我が家には文化資本はないな」とぼやき加減で言ったらしょげてしまった。
僕にとっては日本人に〈教養〉が重視されないのは自明だろうと思っていた(竹内洋『教養主義の没落』(中公新書)では母世代にちょうど反教養主義・下町主義が台頭してきたと記述している)が,母にとってはこれが意外なことであったらしく,僕にとってはそのことが意外だった。
日本にとって〈教養〉に馴染みがないからこそ「教養制覇本」なるものが出る。
西洋でいうと教養というものは例えば,日々の生活のある部分にギリシア・ローマの格言が引用されていたり,いわば知覚されうる。
しかし日本ではそのような空気がほとんど見られない。
〈教養〉というものに触れることがないから教養は自分が勉強している,あるいは興味のある分野からひねり出すしかない。
それが教養の取り出し方だと思うが,その方法でいくと〈教養〉を自覚して取り出すことができない。
「教養」とは不思議なものだ。
〈教養〉が欲しいというものには付かないのだから。