アイドルライブの中の秩序

先日,生まれて初めてアイドルライブに行った。

場所はすすきののZepp札幌で,ももいろクローバーZ(以下,ももクロ)のライブだ。

ちなみに,僕はももクロのファンではない。

ももクロの曲は1,2曲しか知らないまま足を運んだ。

ここだけ読むと,僕はまるで消極的な心構えだと思われるだろうが,無論そんなことはない。

僕だって時間に限りがある。

僕はこれまでアイドルのオタク(以下,ドルオタ)のふとした瞬間の熱狂っぷりに相当な興味を持っていた。

日常生活でさえ刹那の狂気を見せるドルオタが集結する空間はどのようなものかと観察のようなものをした(もっとも,ドルオタに限らず世間に数多いるオタクというものは何もない瞬間に早口でしゃべるものである。研究者然り)。

 

秩序の創造装置としてのアイドル

 

ライブ会場に入ると,なんともいえない,湿った熱気が体を包む。

僕は会場に向かう途中に友達から掛け声なるものを教わった。

最初にももクロが出てくると掛け声をするらしい。

以下斜字部分は掛け声にあたるものである。なお,「\ /」部分は観客が言う部分になる。

 

\あーよっしゃももクロー/
れに、かなこ、ももか、しおり、あーりん、いくぜ、ももいろクローバー

 

皆さん人差し指を1本出してください!
一緒にお願いします、せーのっ
\はち はち はち はち でこっぱち~!/
茶畑のシンデレラと言えば? \かなこぉ~↑↑/
はーい、えくぼは恋の落とし穴、百田夏菜子、24歳です!

 

しおりんの~あいうえお作文~! \イェーイ!/
皆さん一緒に手拍子お願いします、せーのっ (パチパチパチパチ)
\しおりんのし~/ しゃべるの大好き~
\しおりんのお~/ おしゃべり大好き~
\しおりんのり~/ 理由はないけど~
\しおりんの…ん~?/ ん~…今日も一緒に~
\Let's ももクロちゃーん!/
はーい、泣き虫で甘えん坊はもう卒業!
ももクロの若大将、玉井詩織、23歳です!

 

それでは皆さん一緒にお願いします、いくよっ!
おっ肌ーのおっ手入ーれ \キュキュッキュキュー!/
あーりんのほっぺーは \ぷにっぷにー!/
ぷにっぷにー?ぴちっぴちでしょ! \ぴちっぴちー!/
はーい、
ちょっぴりセクシーでお茶目な!ももクロのアイドル、あーりんこと佐々木彩夏です!

 

れにれに体操第一、いくぞー! \おー!/
右手を上げて~、左右に振って~
今日も愉快にいっちゃうよ!
いつも~のんびり~ \高城れに!/
あなたの後ろに~ \高城れに!/
一家に一台~ \高城れに!/
そんな~私は~ \高城れに!/
はーい、
ももクロの鋼少女、高城れにです!

 

以上,このように最初ももクロが自己紹介をするのだが(曲は「Over True」),それに合わせてファンたちは合いの手を入れる。

逆にここで合いの手を入れられない人は疎外感を感じるだろう。

つまり,このZepp札幌の会場においてはももクロたちの自己紹介の合いの手はある種のサンクション性を持っていると言うことだ。

それは,どういうことかと言うと明瞭な規範がそこに存在していると言って良い。

十分条件だ。

こうして我々は最初の段階でももクロを中心とした規範形成の場面に立ち会うわけである。

ここで興味深い点は,サンクションについて,ほとんどの場合自己準拠的に課せられていることである。

ファンたちはももクロに釘付けなのだから,たとえ掛け声をすることに失敗したと思っても,外的な行為評価,すなわちサンクションは及ばないのだ。

次節以降,このことをドルオタのアイデンティティと関連づけながら,多少の議論を展開していく。

 

オタクのアイデンティティー同化

ライブに行った後,僕はオタクの友達に自分が感じた異常さについて話した。

友達は笑いながらなかなか鋭い意見を出してくれた。

彼は続ける。

 

「オタクは普段隠しているオタク性をライブで開放する。そしてそこでは大多数が同じオタクなのだから恥じる必要はなく,大胆に振舞うことができる。現実逃避の一種なのかもしれない」

 

ドルオタたちが大胆に振る舞った結果(僕の横にいたおじさんはとても楽しんでいた),なにかルソーの「一般意志」のようなものが共有される。

こう理解して良いのか。

もう一つ指摘できることは,いわゆる「コール」だ。

これはももクロが歌っていたり踊っていたりするときにする「掛け声」のようなもので,僕はこれが本当にわからなかった。

どうすればできるのか。まさかみんな最初から知っていたのか。

そんなことはあるまい。

予想の域を出ないが,おそらくドルオタも振り付けや掛け声を「学んだ」のだろう。

今,学んだといったがどのように学ぶのだろう。

それは隣の人の行為を〈見る〉ことだ。

実際に僕は隣の友達を〈見る〉ことでなにか予測なるものを養った。

これはまさに内面的なサンクションを自己準拠的に課した人が規範の内側に入ることを目的とした行為なのだ。

つまり,〈まなざし〉の中で規範を〈探る/探られる〉関係に僕と友達はあったわけだ。

また,先程オタクのアイデンティティーをルソーの「一般意志」と例えたが,あながち間違いではないように思う。

なぜなら,アイドルのライブ会場は〈閉じた世界〉であることに間違いがない。

規範を中心にして考えると,ももクロという中心(ウェーバー的に言えば「カリスマ」)を媒介にして観客がプロフェッショナルなオタクの行為を〈見〉ながらマネをして自分たちも仲間に入る。

逸脱者たちが積極的に自己を規範化しようとしているのだから外の論理は不要なのだ。

ルソーの「自由意志」もこれとパラレルだ。

ルソーは社会契約論で自由で平等な人間の最大公約的な考えは社会の構成員の自由を奪わないだろうと説く。

よもやヒトラースターリンと同じ論理に社会契約論はたどり着く。

〈閉じた世界〉の完成だ。

もちろん,アイドルライブに危険性は全くない。

しかし論理的には〈閉じた世界〉になる。

規範の内面化。これがももクロのライブでは見ることができる。

この一点に尽きる。