なぜ違法薬物は違法なのか

ピエール瀧がコカイン所持で逮捕された。コカインというものは所持しているとそれだけで犯罪になり,逮捕されるそうだ。ところで,テレビやネットを見る限りこの芸能人の逮捕劇の際に「なぜその芸能人はコカインを使ったのか」や「どうやってコカインを手に入れたのか」,はたまた「薬物所持違反の逮捕に関するマスコミの報道」に対する意見はとても活発に発信されているが「そもそもなぜコカインを持つと逮捕されるのか」という疑問ないし問題提起をしている人は少ない。

そこで今回は日本であまり議論されることのない,「なぜ違法薬物は違法なのか」という問題にあえて考えていこうと思う。

 

近年の芸能人の薬物逮捕

芸能人の薬物乱用による逮捕劇は僕が物心つくときからあった。記憶している中で1番古いのは2009年の酒井法子覚醒剤所持による逮捕である。その次はASKA(2014年),そして清原和博(2016年)とコンスタントに薬物報道は世間を賑わせてきた。もっとも,僕が生まれる前にも当然薬物報道はあったし(例えば,尾崎豊は1987年に覚せい剤取締法違反により逮捕されている。なお獄中で彼が作った曲「太陽の破片」は名曲である),少なくとも戦後において日本の芸能界と薬物は切ってもきれぬ縁であったことは疑いない。

 

1年生の演習での発表そしてレポート

実は1年生1学期に演習でASKA覚せい剤取締法違反の報告をしたことがある(一般教養演習(フレッシュマンセミナー)「社会規範と法を考える」)。当時の報告はロクに準備もせずにひどい発表だったが(実際に教員に叱責された)これを元に,そしてアップデートに努めて,いわゆる「薬物問題」を見ていく。

 

発表の中で問題意識に上ったのはやはり「薬物所持が犯罪である理由」であった。これはしっかりと持っていたのだが自分の舌足らずでよく言い表せなかった。ともあれ,教材の中で違法薬物所持は「被害者なき犯罪」と呼ばれていて,それに引っかかりを持ったのだ。すなわち,⑴犯罪というものは被害者がいなければ原則成立しない,⑵違法薬物所持は⑴の例外である犯罪である,という2点が問題であるとは理解できた。

しかし,今になっても刑法典が生命や身体,そして財産といった法益の侵害に対する「外的に保障された」制裁規範であるのに対し薬物所持が法益の侵害になるのかに関しては疑問がないわけではない。

 

第一に,法益侵害の客体を特定する必要が出てくる。

第二に,もし他者の法益の侵害のみ制裁が加えられるとしたら,一体薬物所持違反の根拠となりうる価値の発見である。

 

第一の疑問から考えていこう。

ここで自分の法益は含まれるのか。それとも自分を除いた他者にのみ帰属する法益の侵害なのか。

これについては「自殺は違法か」という刑法上の問いを見ながら考えていきたい。刑法では自殺関与・同意殺人罪(刑202条)が設けられており,これらの行為の処罰根拠として自殺の違法性が論じられてきた。また,殺人罪(刑199条)との峻別の際に議論されてきた自殺意思の存在も重要である(法益関係的錯誤論。山口 2009:15頁)。

そこで,自己の生命の侵害たる行為である自殺という行為そのものが違法性を帯びているか考えていき,そこから刑法典の法益侵害の射程を定めていきたい。

まず,自殺行為が犯罪であるとする立場からは,自殺関与・同意殺人が犯罪行為である根拠としては自殺者を非難するのは既に自己の生命を失った犯罪者を処罰することは適当でないから,自殺行為を教唆・幇助した者のみ処罰されるに過ぎないという結論が導き出される(内田 1996:14頁)。しかしこれでは自殺が犯罪である根拠が自殺者以外の法益の侵害という堂々巡りに陥り,結果的に自殺関与・同意殺人罪が生命侵害材ではないということになってしまい,妥当ではない(中森 2015:10頁)。また,自殺は違法だが,可罰的違法性が欠けるとする見解もあるが,その前提を持つと可罰的違法性のない行為の教唆・幇助が可罰性を有するというのは不条理になる。

このように考えていくと自殺という行為そのものは刑事罰の保護の対象にならないという結論が妥当であろう(山口 ibid:12頁)。なおこの考え方を徹底すると生命価値よりも自己決定の価値が大きいとするリバタリアニズムに陥ることに注意が必要だが,今日の日本において「終活」や「安楽死」が囁かれている以上,生命の価値が揺らぐこともまた驚くことではない。

以上の議論を経て第一の疑問に対する応答として,刑法典の保護法益の客体は,刑法典が最大の保護法益としている生命の事故の簒奪に違法性がないことから,他者のみに限定されるということができよう。

 

そして,第二の疑問にシフトしていく。

これについて発表時点では疑問だけに留まり,明確な答えを出すことができない。むしろ,処罰根拠を見つけ出すことができなかったがために今に至る。

ひとまずの結論として提示したのが薬物を使用することにより他者の法益を侵害する可能性が高まるというものだ。だとしたら違法薬物所持を抽象的危険犯として位置づけられ,犯罪行為として納得できるからだ。

しかしながらこれには2点の反論ができる。

1点目はそもそも薬物を使用している者の数と薬物を所持・使用していない者の数を特定し,そして犯罪率を比較することができるのかという統計的な問題が有する。演習の教材の中に違法薬物所持者の検挙数の推移が示されていたが,このデータのみで日本の違法薬物所持者の概数すら割り出すことなど不可能だ。違法薬物捜査・所持情報に付きまとうのがしばしばその暗数である。だから,例えばある年に違法薬物所持者の検挙数が多かっただけでその年に違法薬物所持者が多かったという結論にはならない。

2点目は,他者の法益を侵害する可能性が高まるのは果たして違法薬物を使用した者のみなのだろうか,という境界線的な問題である。例えば酒を呑み酔うことで気が大きくなり,その中で暴力・傷害事件をおこすというケースは我々はしばしば目にすることがある。2017年の(当時)横綱である日馬富士が起こした暴力事件にしても酒が絡んでいる。どうして覚せい剤とはじめとした違法薬物は取締りの対象になるのに酒は取締りの対象の外になるのか。ここに1年生の自分は恣意性や奇妙さを覚えた。加えて,未成年が酒を所持すると没収されるという規定があるが,あくまでそれは行政処置的性格を有するのみで刑罰とは質的に異なるのだ(櫻井,橋本 2016:186頁)。また,大麻とタバコとの比較では,大麻の方が依存度が低いという科学的データも出ている。

 

発表の中で教員は違法薬物の所持・使用が処罰される究極の根拠として「人間の尊厳」を挙げた。この言葉には多様な解釈が認められると思うが,事案や議論の文脈を加味して自分なりに咀嚼すると次のような言説になる。すなわち,「自己と他者の差異を他者が認める程度に許容し,その限度を超えた場合に「人間の尊厳」を用いて他者が同化あるいは排除を行う」。ここで「人間の尊厳」というものが手段になっている点に着目することができる。本来,法の基本理念として掲げられる人間の尊厳が処罰根拠になるということは社会がある人物を引き寄せるか,それとも排除するか,というイデオロギー的判定装置に次数が下がる。これ以上人間の尊厳の考察を続けても今回の記事に関する実益は乏しいと思われるからこの点でとどめておくが,違法薬物の所持・使用に人間の尊厳が関わっているという教員の指摘そのものは特筆すべき意義を自分にとって有した。

 

レポートではもう少し戦後日本の薬物の取り締まりについて法制史的観点から調べていった。1946年に制定された麻薬取締法は麻薬を違法薬物として取り締まる法律であるが,これはアメリカ主導で制定されたものである。立法趣旨としてはアメリカの工業産業を日本に推進するという願望,そして日本における大麻産業の弱体化である。また1949年に制定された覚せい剤取締法は朝鮮への資金の温床となっていた覚せい剤の抜本的な取り締まりを目指した者であり,健康や犯罪行為の危険防禦といった現在市民に流布されている趣旨とは大きく異なることがわかる。

 

法の第三項化

この立法趣旨とはかけ離れた現在の法運用を「法の第三項化」とでも言い表せよう。この事案から見るに違法薬物が違法である理由は法に書いてあるからとしか言えない。第三項化した法においては法が法である根拠は「それが法であるから」というトートロジカルな説明しかつけえない。それが故に科学的言説ややもすると法の内部そのものの批判から脆い。実際に諸外国では近年大麻の合法化がカナダをはじめとして顕著になる。「違法薬物が違法である」ということが良いか悪いかといったべき論は別として,今後の法の動態的運用に注目される。