社会の理解と秩序づけに関する法と宗教間の類似点と相違点 〜Ravitch先生の話を聞いて〜

これは2018年12月21日に北大軍艦講堂5番教室でF.Ravitch教授(ミシガン州立大学)の講演(Perceiving the World Around Us: The Similarities and Differences Between Law and Religion in Understanding and Ordering Society)をベースに,さらにM・ガブリエルの実在論やN・ルーマンの社会システム論を自分なりに咀嚼し,理解したものとなっている。僕の言わばノートのようなものになっているので,やや噛み砕いたり議論が粗雑になっている箇所がある(かもしれない)。自分のためにノートをとっているに過ぎないので了解されたい。

 

講演会前日

講演会の前に僕は宗教と法の違いについて,以下のように呟いている。

宗教と法の違いって,論理が開いてるかどうかなのか。両者が規範である以上,集団内のサンクションの是非による判別は相対的なものだ。だとするならば,質的な差異であり,前者は「我々と彼ら」のように集団を区別することがあり,後者は集団を解体する,いわば真逆の作用を持っているのではないか。

これに一点訂正するならば,「相対的なもの」と宗教と法の「サンクション」を見なしている以上,その後の論理構成がやはりおかしい。

 

以下,Ravitch先生の講演会を元に考えていく

 

宗教と社会秩序

宗教とは,人びとや世界,そして宇宙(普遍真理)を理解するシステムを提示するものである。例えばキリスト教は神を秩序立ての根拠にしていた。人が生きている意味を問うことは日常の中でほとんどないが,ふとした瞬間に生きている意味を考えてしばしば悩むこともある。このような場合に,世界理解の一手段として宗教の存在位意義があり,人間が存在して以来ずっと宗教は存在したと言って良い。

これに関してM・ガブリエルは宗教とフェティシズムの関係について,「どの世界宗教にもフェティシズムに逆行する傾向があ」ると指摘し,宗教を「遠く隔たったものにたいして人間が持っている最も根底的な感覚・感性,すなわち遠隔感覚」であると定義する(ガブリエル,2013=2018:219-223頁)。例えばキリスト教ユダヤ教偶像崇拝を禁止する。これは物質と人との関係によりモノ(商品)の価値を持つとするマルクスフェティシズムの定義からすれば,「フェティシズムに逆行する」ものだと考えられる。そして,ガブリエルはさらに議論を進めてフェティシズムではないからこそ無限の可能性が内包されているとする。また,宗教の機能を「意味の探求の一形態」とも言う(ibid:230頁)。「神」といった超自然的存在・現象を前提として考えて究極的には自己の存在意義を考える手段になる。

しかし宗教は世界の中で複雑で多様にわたる。それらの中で秩序づけが全く異なる宗教も存在する可能性も高い。先生はこれを「傘のように宗教を一括して定義できない」と仰っていた。宗教が異なれば個人の真善美も異なる場合も多い。

自己の宗教の秩序維持のために他者に自分の進行している宗教の教義を貫く類型もあればそうでないものもある。そしてこれがしばしば価値対立的な紛争(conflict)に発展していく。しかし大半の宗教規範の中で共通するものもまた存在する(例えば,「何も害をなさない人を殺してはならない」などの社会規範の材料になりうるものなど)。

 

法と社会秩序

法もまた世界の秩序づけのシステムを提供する。具体的に言うと,予定されている(expected)社会構成員に対する規範(norm)を創り出す。つまり法の機能は秩序の「手助け」になる。法がなければ無秩序ということではないが法があれば秩序を外的に保障する見込みができる。とりわけ法の支配(Rule of Law)とグローバリゼーションが進んだ現代社会において,ローカルな秩序(日本のムラ社会的な慣習など)が相対化され法が「やって良いこと/やって悪いこと」の線引きをしたり異なる世界理解の見方を埋める役割を担っている。

しかしながら法が規範として作用するのは大半の場合ある種の対立・紛争が生ずる時のみである。現代社会において,一般の人は法についてあまり考えない。とりわけ日本の場合はその傾向が強いと指摘されている(川島武宜『日本人の法意識』(岩波新書,1968)参照)。かつてホームズ判事は「法は誰のためにあるか」という問いに対し「悪人のためにある」というのも同じ文脈のプラグマティックな意味を持つ。

M・フーコーは規範として法(法律,laws)を捉えていない嫌いがある(A・ハント=G・ウィッカム,1994=2007:61-93頁)。フーコーは規律(norms)と法律を明確に区別することによって近代社会の権力性について議論を展開していく。フーコーによると法の役割は法的逸脱こそが法の成功であるという逆説的な展開が生まれる。これはベッカリーアの刑法論でのみの法知識としか言えない。

 

宗教と社会認識

Ravitch先生によると宗教の大きな2類型として⑴権威主義的宗教と⑵反省主義的宗教に区別される。

権威主義的宗教

権威主義的宗教は非信仰者にも自分たちの信条や振る舞いを強制することを求める。そして,しばしばdogmatic であるが故に形式主義的である。強制の水準としては法システムに似ているが,このようなドグマ的宗教は社会の大部分に属することはないので積極的に改宗者を求める傾向にある。

⑵反省主義的宗教

懐疑主義的な性格を有しており,宗教内の問題を積極的に吸収・奨励する。そのため民主主義的手続きが行われており,実質主義に位置付けられる。

 

法と社会認識

現代社会における法と宗教の相違点の一つに,民主主義国家の場合は社会内の正統性(legitimacy)があるか否か,がある。これは前者が民主的社会内で正統性を持つのに対し,後者は持たないことを意味する。法は正統性を受けて社会内での「してはいけないこと」の境界線(horizon)認識の手助けをする。法によって例え宗教内で規律に記述されていなかったり許容される行為も社会規範という次元においては法が境界線を画定するからである。

また,法と社会規範はどちらが他方を確定するのかという問いに対し,先生は相互的に応答すると答えている。

法システムが自律性を持つという前提に立てば,つまり法システムは2つの領域が存在することがわかる。1つは社会規範や社会変動に法が対応するような辺境領域。もう一つは法的紛争の処理をするための法規範の解釈という中心領域。後者について,先ほどdogmaticな性質を有する。ルーマンは,dogmaticをある規律や命題を批判することのない大前提とみなし,「独立した研究の放棄を要請」するものだとしている(ルーマン,1973=1988,12-14頁)。ルーマンの側に立てば法システムそのものも権威主義的宗教と同じ側面を持つように見えてくるのではなかろうか。Ravitch先生も社会システム機能と要員の理解の必要性を説いておられた。

 

宗教と法の類似性と差異

法と宗教はどちらも人々の生活の秩序づけの手助けになる。

法の内容は,法の内容そのものを支持していない人にとっても理解可能であるのに対し(公共的受容可能),宗教の内容は,宗教の内容を支持していない人はその教義を理解不可能である。

また,国・地域によっても法システムの内容は異なるし,宗教の教義が法と同じになる場合や法と宗教の規範が裁判などの法的紛争において融合して用いられる国もある(例えば,インドなど)。

 

参考文献

A・ハント=G・ウィッカムフーコーと法』(早稲田大学出版会,1994=2007)

M・ガブリエル『なぜ世界は存在しないのか』(講談社選書メチエ,2013=2018)

川島武宜『日本人の法意識』(岩波新書,1968)

N・ルーマン『法システムと法解釈学』〔土方透訳〕(日本評論社,1973=1988)