近代的所有権概念(3・完)

前々回(近代的所有権の意義),前回(近代的所有権の社会的機能)からの続編。

近代的所有権概念(1) - pompombackerの徒然

近代的所有権概念(2) - pompombackerの徒然

 

Ⅲ 近代的所有権の限界

  しかしながら,今日の社会変動,グローバリゼーションとその反動としての排除型社会の出現,を踏まえれば近代的所有権(論)にも限界があることが読み取れる。近代的所有権は「交換価値」を前景化しすぎており,「共同的・公共的利益の再評価」,「『排除型社会』化ないしセグリケーション,ジェントリフィケーションの進行」,「資本としての所有」や「人体や人体的利益などを,十分に取り込めない」との批判が見受けられる(注1)。

  近代的所有権の限界に論じる前に,前述した功利主義的な所有権理解の限界をここで論じておこう。言わずもがな,功利主義の名の下に「所有権を人々が持つ」ということは所有権の存在が社会にとって最大の効用をもたらすということになる。この論理には「人々が所有権を持たないことは不幸である」という対偶が存在するが,果たしてこれは真だろうか。昨今の状況を見ている限り,むしろ社会の方が所有権の取り扱いに困っているようにも思える。過疎地域の所有者が死亡した土地の地方自治体の取り扱いはその典型になる。また,「所有することが価値を持つ」としたとしても,それは取引費用が高いだけの場合に過ぎず,所有すること自体に費用がかかる,ないしは取引費用がほとんど無くなる場合には合理的な人間は所有を選考しない(注2)。このように考えると,現代では伝統的功利主義の孕む形式的な所有権理解には限界があることがわかる。

  ベンサム的所有権理解もマルクス主義的所有権理解も市場における所有の価値から所有権を理解するという点では根が同じである。ここでの分析対象はこのような市場の中にうまく馴染めない形態の所有と近代的所有権の機能の限界である(注3)。しかし,前者は社会問題として提示されてきた,①環境問題,②身体の物化がしばしば引き合いに出される。それぞれ見ていこう。

  ①環境問題

  昨今の地球温暖化水質汚染などの環境問題を受けて,環境に対してどのように所有権が対応できるのかを考える必要が出てきた(「緑の所有権論」,注4)。これは近代社会が当初から予定していた経済システムの外からの要求と言えることには異論を待たない(注5)。しかしながら生態系の保護,汚染被害の縮小といった法・経済システムの外からの要求は自己の使用・収益・処分を目的として設定された近代的所有権の精神に対抗しているかのように写る。経済システムの中では所有権者は自己の所有物を用いて直接の法益を得るという主体モデルであるからだ。この一見対立しているような構図を乗り越えることはできないだろうか。

  前述したように,近代的所有権は私的性質と社会的性質に分割される。環境問題という現代社会の問題は,後者の社会的性質で補えるように思える。なぜならば本来の近代所有権も内在的に絶対性を掲げていたとしても社会との協調性(=社会的性質)に外在的に制約されてきた。ゆえにこれは協調する対象を自然・動物まで拡大すれば近代的所有権は絶対性を保持したまま存続できるかもしれない。

  しかし,これまでの所有権の外在的な制約は人間社会の活動との利益衡量の結果にもたらされたものであり,自然や生態系を自己の法益と考えず,勘定の外に置いていた。ここに近代的所有権を環境問題を題材に検討する意義はある。つまり人間中心主義を取る近代法の中の公理としての近代的所有権は人間直接の利益とは質的には異なった「地球全体の価値」なるものに対する譲歩を社会的性質と見なせるのであろうか。

  「地球社会」と言えば聞こえはいいが,これは人間が直接の自己の利益を追求していない点で私的性質を満たしていない以上,近代的所有権に一定の限界があることを示すと考えなければならない。そして,私的所有モデルの限界,所有の公共性,社会的責任の強調」による「市場主義モデルの限界設定」として新たに現代的所有権を構築しなければならないのではないかと思う(注6)。

  

 ②身体の物化

  20世紀末からの科学技術の発展により様々な革新が社会に〈散布〉されたが,その中でも「臓器取引,人工生殖に関わる精子卵子の斡旋(注7)」といった身体の物化はクローン技術と相まって社会の中でその倫理的問題として取り上げられてきた。これは主に臓器や血液といった本来人間が尊厳を持った個人として備えるべきだと考えられてきた証左であり,それが代替可能性の拡大に伴いある種の〈揺らぎ〉を見た。

  身体の物化に関する法的な問題としてはやはり身体の所有性であろう。我が国では人の死後遺骨は「祭祀主催者,祭祀承継者が取得する」のが判例・通説である(民897条類推適用,注8)。すなわち司法でも身体の物性について一定の程度認めている。問題はこの身体の所有権なるものが人が生きている間にも認められるかどうかである。そして,本稿においてさらに重要なことは,その答えを近代的所有権論によって導き出すことができるかどうかである。

  例えば,我が国では公序良俗,すなわち社会的妥当性の観点から人身売買は無効だ(民90条,注9)。あくまで公序良俗違反であるという判断でありそこには人間の尊厳や風俗といった道徳的公序,社会の調和といった要請が写像される。これは近代的所有権の社会的性質とは異なる理由づけであり,むしろ共同体による社会規範(=〈しがらみ〉)に近似する。これは身体の一部,例えば臓器の取引でも同様の理由が発生し,その意味で近代所有権はうまく身体を交換価値の中に取り込むことができないと考えられる。

  以上,近代的所有権の限界を2つの社会問題から検討したが,①から示唆のはもはや近代的所有権の絶対生というものは所有権概念の理念としてのみ謳われる。「フランス革命の際の人権宣言には『所有権は神聖不可侵の権利だ』といっていたが,今日では,所有者であっても,もはや絶対の自由を持っているものではない(注10)」という主張には説得力が感じられる。ここでは,所有権は自由な使用・収益・処分ではなく「制限的な」所有・収益・処分に変遷していく。

  また,②では市場システム,すなわち商品交換機能の限界と近代的所有権の限界がパラレルに論じられた。これに加えて,ワラント財などハイリスク商品の市場そのものがそのリスクゆえに弱者の参入を拒み,一定の「人」の市場からの排除が見られることも注目しておくべきである(注11)。またこれに付随して果たして最大単位が国民国家単位の社会を超越したグローバリゼーション社会の中で所有権の包摂機能が働くのかどうかも考える余地はあるだろう。


1)尾崎一郎「所有権概念の社会的機能」法律時報1334号(日本評論社,2019年)83頁。

2)「法と経済学」的な思考をすると,例えばなぜ人々は所有するのかという問いに対しては,次の両者を比較する。すなわち,人々が所有する際の維持費用と市場メカニズムの中で物を融通し合う際の取引費用である。そして,取引費用が高いが故に所有に価値が存在するという結論が導かれる。

3)もちろん,現代においても我々は市場メカニズムに依存しなければ分業化が発展した社会では生きてさえいけない。しかしながら,別に川島武宜を擁護するつもりはないが,現代社会の問題に対して耐えうることができないような「近代的所有権論は無力である」(前掲書(注1)83頁)と言われる始末である。

4)吉田邦彦『民法解釈と揺れ動く所有論』(信山社,2000年)422頁以下。

5)例えば,見田宗介現代社会の理論〔改訂版〕』(岩波新書,1996=2018年)61頁以下。ここで見田宗介は大衆消費社会をその〈外部〉の汚染の背景として断定しているが,要は人間の効用を満たすための経済システムに包摂された市民社会が,その効用を甘受している一方で市民社会の外ではある種の外部不経済が起こっているとして環境問題を定式化している。

6)前掲書(注4)440,441頁。

7)前掲書(注4)529頁。

8)最判平元・7・18家月41巻10号128頁。

9)最判昭30・10・7民集9巻11号1616頁。

10)我妻栄民法案内 4物権法 下』〔幾代通ほか補訂〕(勁草書房,2006年)4頁。星野英一民法概論Ⅱ(物権・担保物権)』(良書普及会,1976年)112頁以下も同旨。

11)吉田克己『市場・人格と民法学』(北海道大学出版会,2012年)217-220頁参照。