東京での断片(駄弁)

この断片の寄せ集めは帰りのボーイング737-800の上で書いている。

酒を呑みながら書いているのでいかなる誹りも受けない。

 

 

W大学法学部の国際法ゼミとの合同報告会があって,しばらく東京に滞在した。

僕は中学生活3年間丸々東京で過ごしていて,知り合いもいる。

しかしながら中学の友達には会わなかった。

いや,会うことを避けていたのかもしれない。

 

相変わらず億劫なのだ。

成人式の同窓会を御託を並べて欠席したときと精神的になんも成長がない。

 

僕の精神は幼い(と思う)。

だから「社会への貢献」だとか「価値を生み出す」といったキラキラした言葉にお腹いっぱいになることがある。

ましてや自分がしていることにそれが求められるとなると何もできなくなりそうになる。

僕が勉強する理由は人々が容易に使う「社会」というフィクションの概念に疑問符を持った無能であるがゆえのものにすぎない(強いていうとおおよそ基礎法学ないしは哲学・社会学を勉強する人はそういう人が多いのではないかと思う)。

この無能が政治家に「社会への影響」を求められても何も言えなくなってしまう。

いわば自分が社会とつながりを持つための独り善がりな幻想で社会を見通すに過ぎないからだ。

 

中央線で遭遇したあいつに僕は声を掛けられなかった

金曜日に僕は東京に着いた。

格安航空は大体札幌発成田着でいつもLCCを使わなければよかったと後悔しているのだが。

その日に親しいT大生とご飯を食べようという約束をしていた。

新宿待ち合わせで,僕は水道橋のホテルに滞在していたので中央線で新宿まで向かった。

 

電車の中で,僕は彼を見た。

彼というのは,中学の同級生のことだ。

彼は確か中学3年のときに転校してきたと思う。

すごくサッカーが上手くて,修学旅行の班もおんなじだった。

彼は学校の成績は決して良くは無かったが,以外に要領はよく,成績の良し悪しに関わらずよく話していた。

親友とまではいかなかったが,そういう友達だった。

 

しかし高校から僕は北海道で,連絡も全く取ることはなかった。

彼は正反対の沖縄の高校に行くとか言ってた気がする。

だからある意味で僕らは同じだったしある意味で僕らは全く違った人間だったのかもしれない。

 

そんな彼に中央線で遭遇したのだ。

最初は彼かどうか判別できなかったが声だとか笑い方で彼ということがわかった。

T大生との待ち合わせにも余裕はあったし話しかける条件は整っていた。

しかし僕は話しかけることができなかった。

 

というのはあまりにも彼と僕は現状異なっていたからだ。

彼は見た途端にそれを理解することができた。

彼には奥さんがいたし子供もいたのだ。

 

僕はもはや彼と「生きている世界が違う」と直感的に感じ取り,顔を背けることしかできなかった。

 

億劫なのである。

空っぽの化け物で暴力が走ってくるのだ。

 

合同ゼミの感想

土曜のW大学法学部国際法ゼミとの合同報告会では学ぶところがあった。

僕らの班の発表は一番最初で,緊張もしたが楽しく発表することができたと思う。

発表のなかではW大生から鋭い指摘があり,それは今後のゼミ論にフィードバックしていきたいと思う。

個人的にやはり発表後の質疑応答はとても大切だと思う。

それは大きく2点あって1つは自分の考えを整理することができるからだ。

僕らの班は実際に演習の中で調べたことの氷山の一角しか発表することができなかった(研究会のように90分あれば満足いく発表もできたのではないかと思う)。

だからそこは割り切らなければならないことだがそれでも自分たちが何を考えているかを反省できると感ずる。

もう1つは新しい視点が提供されることだ。

所詮4人という限られた人間が調べて考えたことなんだからこの道筋自体に致命的な落とし穴があるかもしれないし,あるいは各論的な課題に関して別の見方をすれば新しい問題が発見されることもある。

まさに発表はそこが醍醐味なのだ(付言すると当日のW大生からの指摘に際して僕は「負けた」と思った。議論は勝ち負けなのだ)。

 

あと発表で大事なのは問題の所在がどこにあるのかをしっかりと,繰り返し明示することなのだと思った。

特に法学という学民の性質上,条文の解釈やそれに付随する学説の展開ないしは判例の推移までたどらなければならず,それはそれは困難を極める。

報告の中ではこのような法ドグマをほとんど取り払ったが,この難しさこそ法学の醍醐味であるのは重々承知している(同じ班のS君は大分頭を悩ませていたみたいだが)。

後日のOBとの座談会でも出たのがやはり問題の所在の明確さだった。

なお,W大学の報告は僕個人も問題の所在が不明瞭だと感じたところもあったし,それはみんな感じていたのかもしれない。

いずれにせよ,どの班も自分では発想できないところに着目していて,大変勉強になった。

もう少し質疑応答の時間を増やして議論をすることができればとも感じた。

 

僕は後輩に誇れるような人間になっているのだろうか

今回参加したゼミは半年しかないゼミなのにOBとの繋がりが大きいと感じる。

これは教員の人望・人柄なのではないか(?)

 

日曜日はOBとの交流会があり,OBの方々が僕らのために就活に関して発表をして下さった。

やはり皆さん自分がどんな仕事をしているかだとか,社会の中での意義をすごくわかりやすく語って下さった。

総じてOBの方々は紆余曲折あれど自分の仕事に誇りを持っていて,僕からするとキラキラしていた。

 

そして,ふと感じたのが,僕はこのゼミのOBとして振る舞うときに,果たして誇りを持って何かを伝えることができるのだろうか,ということだ。

前述の通り僕が無能だから勉強しているのであって,またこれから勉強していくのだ。

そんな無能な人間に何も教えられることがないと思う。

M・ウェーバーも『職業としての学問』で言うように勉強とは文章の意味について微に入り細に入るものなのだから。

 

神保町の古本屋を巡った

今日はホテルを10時にチェックアウトしてどうするか考えた。

羽田発の便が14時5分出発予定だったので時間が少しあった。

僕は神田のホテルに泊まっていたから,神保町の古本屋を巡ることにした。

10時時点ではまだ開いていない店も多かったが次第に,のろのろと店主たちは店準備を始めた。

店ごとに集めている本の種類に性格があって,それは面白いと思った。

僕は政治にも仏教にも日本史にも興味がなかったから法律と社会学,哲学の本がおいてありそうな店を巡った。

 

特にじっくり見たのはN書店だったと思う。

この店は靖国通り沿いでは一番法学の本が充実していた。

覗いてみると,意外にも国際法の本があって,S君なんかは喜ぶんじゃないかと思った。

民法も充実しており,川島武宜の入会についての研究もあった。

我妻・星野民法も一部あった。

僕はそこで渡辺洋三の本を買った。

確か図書館にあったけれど,じっくり読みたいと思ったし何と言っても保存状態が良かった。

また安かったのもあった。

 

掘り出し物としては,田中成明の『法的空間』ではないだろうか。

これは図書館で見かけたことがなかった(もしかしたら書庫に眠っているかもしれないが)。

1995年出版ということで田中成明法理学の骨頂だと思うのだが。

読むのが楽しみである。

この本屋は靖国通りから白山通りに沿って水道橋方面に向かった所にある。

法律書が充実していた。

H.L.A.ハートが法における因果関係について論じていた本があり,ぜひとも欲しいと思ったが高くて手が出なかった。

初めて見たからおそらく開架にはないだろう。