アニメは幼少の頃から見ていて,アニメ映画もよく見る。
昨今だと去年の『ペンギン・ハイウェイ』だったり今年の『天気の子』といったところか(『君の名は。』がもう3年前の映画だなんて想像ができない)。
まあつまり,特に僕にとってアニメを見ることは大して以上なことではない。
夏休みに入ってからは少々古いアニメを見ている。
これは面白い。
マンガが原作になっているのだが,その漫画も面白い(もちろん全巻持っている)。
しかしアニメ版はやはりキャラクターの動きだったり音響だったり感覚を多分に使うから面白い。
しかも1988年公開だからその当時隆盛を誇っていたセル画による作画なのである。
『AKIRA』の世界は2019年。
今年なのだ。
しかも物語の背景は2020年の東京オリンピックの前年ということになっている。
ここだけ見れば,『AKIRA』の世界と我々がすんでいる世界は同じなのだ。
実際にそのことを言っている記事は無数燦爛していて,大した指摘ではないが,こういったこともあってこのアニメ・マンガは都市伝説に困らない(気になる人は調べて貰えば良い)。
もう一方は『妄想代理人』というアニメだ。
このアニメの監督は今敏という人でもうご存命ではない。
この人は他にも『パプリカ』だったり『パーフェクト・ブルー』といったアニメ映画を作っている。
確か2004年ぐらいのアニメだったと思う。
僕にとってはサイケデリックな音楽で,万人受けはしないと思うけど僕は好きな方だと思う。
ちなみに『パプリカ』でも挿入歌として「白虎野の娘」,「パレード」を提供している。
僕がこのことを知ったのは同じサークルの後輩であるI君が平沢進が好きで教えてもらった。
アニメの方に話を移すと,このアニメはズバリ人間を描いている(と言えるのか?)!
作品の中では連続通り魔事件が主題になるのだが,その犯人は「少年バット」と呼ばれている。
要は少年バットを追っていくアニメなのだが,この少年バットが妄想だったりする。
どういうことか。
それは自分で見て欲しい。
だがこれだけは書いておく。
自らの過ちを自らの責任と認めたくないものだと思うし,先天的な障害だったらなぜ自分が生まれながらに障害を持っているのかという問いに対して偶然のみでは満足せずに整合的な説明を求めるものなのだ(これもまた虚しい試みなのだが)。
しかしこれを社会現象と捉えることもできる。
例えば殺人犯を特定するという行為自体が論理的な整合性を持たせるための虚構に過ぎない。
本当の殺人という社会現象の原因は殺人犯(とされている人)の環境だったり他の人のくしゃみかもしれない。
その意味で,法システムにおける自由意志,そこから生じる責任は少年バットと変わらない。
すなわちそれが社会的に承認されていればそれは整合的で真実になる。
その意味で,『妄想代理人』は社会を描いているとも言える。