川島武宜『所有権法の理論〔新版〕』第3章 要約

 

 川島武宜のモチベーション

 川島武宜は戦中に東京帝国大学法学部で行われた「民法第一部」(末弘厳太郎担当)の中で,実用法学から離れて,特殊=近代的な所有権の社会的作用を分析する特別講義を行った。まさに社会学法律学に他ならない。すなわち民法学でdogmatischeな所有権の絶対性や債権の相対性,そして人格を社会的関係により裏付けを行い,「科学としての法律学」の確立の糸を掴もうとした(もっとも,その試みが現代でも成立しているかは疑問符がつく)。そして,この特別講義を文字で起こしたのが『所有権法の理論』とされている。『所有権法の理論』の「はしがき」で川島は,『所有権法の理論』が我妻栄の「近代法における債権の優越的地位」(同『近代法における債権の優越的地位』所収)から触発されたということを示唆するような記述が見られる。我妻は「債権の優越的地位」論文の中で近代=資本制社会における商品の意義を考える。そして,生産者にとって商品はただ交換価値のみを有していることを指摘し,その交換価値は契約,例えば売買契約,を結ばなければ作用し得ないと説く。そして所有権の絶対性を否定的に捉える。これに対するある種のカウンター・ムーヴメントとして川島の『所有権法の理論』を読むことは可能である。しかしながら両書ともにマルクス主義的色彩が強く,結論も大きな差異はないように見える。ただ視点の取り方が大きく違う。すなわち,我妻がdogmatischeに所有権の定義通り所有権を用いるのに対し,川島は「近代的所有権」を掲げ,そこから特殊=近代的な所有権からはじまり近代法体系まで説明するのである。

 


 川島武宜は『所有権法の理論』(岩波書店,1947=1984年)第3章「近代的所有権の観念性と絶対性」(94-153頁)の中で,文字通り近代的所有権の観念性(と絶対性(注1))を論じているのであるが,そのために⑴近代的所有権とそれに対比されるところのゲルマン法におけるゲヴェーレ,我が国の物権法における所有権の意味を理解する・あるいは所有権を所有権たらしめているところの⑵物権的請求権,そして⑶占有訴権の意義を論じている。

 本題に入る前に,前章で川島が論じた近代的所有権の論理的構造を確認しておきたい。これは次のようなことであった。すなわち,近代的所有権の私的モメント・社会的モメントの分離による物権(人とモノの関係)と債権(人と人の関係),物権と人格の法(=総則),私法と公法,市民社会と国家の分離である。そして近代的所有権の私的モメントこそが私的所有権に他ならず,「支配的・共同体的関係から解放された」(43頁)市民社会の抽象的な構成員の1人として承認される「人格」の「自由意志」により「契約」(=社会的モメント)を結ぶという民法公準が確立されたのであった。

 


⑴ ゲルマン法におけるゲヴェーレと近代法における近代的所有権=「2 所有権の歴史的性格」(97-112頁)

 川島は上記の分化を促した近代的所有権をまさに特殊=近代的な歴史的性格に他ならないとする。そこで「物支配の法的保護が現実的支配の事実と不可分に結合しているところの対蹠的な制度」(97頁)としてゲルマン法のゲヴェーレ(Gewere)を挙げる。

 ゲヴェーレとは「権利の衣」・「権利の外形」と呼ばれることからわかるように,「物支配の保護を物支配の事実と不可分にのみ認めるということが基本原理となっている」(97頁)。すなわち,前近代では人格の法・物権・債権が混合しており,物を所持する者は,分化=自律した「物権」により保護されるのではなく,ゲヴェーレを持つが故に保護されるのである。これはゲルマンの法格言“Hand wahre Hand”に現れる。動産の場合のゲヴェーレを見ていこう。動産の「所持を任された相手方がその動産を約に反して他人に処分した場合においても,もとの所持者は現在の所持者に対し返還を請求し得ない」。また,「動産が所持者の意思に基づかないで,所持者の手をはなれた場合,なかんずく盗まれ或いは強奪された場合には,彼は現在その動産を所持するものに対し,〔・・・〕返還を請求し得た」(98頁)。このときなぜ元来の動産の所持者が第三者に対してさえも返還請求をし得たかというと,「盗まれた者のGewereが盗んだ者の承継人のGewereよりもつよいという,事実支配の相対的な対人的な比較」,つまり近代民法の物権的請求権から生じる返還請求ではなく,「正当な所から物が奪われたという物支配事実そのもの」が理由になっているのである(98頁)。この点は不動産における所持及びゲヴェーレにおいても変わらない。なお,中世においてしばしば特徴づけとされる封建体制によって直接耕作者が現実的に不動産(ここでは農地)を所持しているにもかかわらず現実的には希薄であるが土地支配の政治的性質より生じる上級ゲヴェーレ(主に領主が持つ)は一考の余地があると思われる。つまり事実的な支配をしていないが生じているゲヴェーレはいわゆる観念的ゲヴェーレへと発展していくのである。ここから観念性を持つ近代的所有権へと発展するかと思われるが,川島によれば「現実的支配事実からはなれた独立の「物権としての」保護にまでは到達しなかったのである」(100頁)。これはゲヴェーレが純粋に物権ではないことにつながる。つまり,ゲヴェーレは封建制社会特有の「物(特に土地)の具体的な利用の上に基礎付けられるところの,具体的な・特定人の間の関係」(103頁)を多分に反映した特権とも言える。

 これに対比する形で川島は,近代法における所有権(=近代的所有権)の2つの性質,すなわち観念性と絶対性を論じていく。

 所有権の観念性は近代的所有権の私的モメントと社会的モメントの峻別,すなわち物権法と債権法の分離によって確立される。つまり「物の支配は,それを理由づける観念的な権原に基いて独立に保護されるのであり,ここに「物権」の独自的存在の一つの重要な一面を認め得る」(101頁)。つまり前近代のゲヴェーレに見られた事実的支配と権利の混合は近代の所有権では観念的な支配に代わり,事実的支配に基かずとも所有権を持つことができるのである。

 観念性は次の2つ,すなわち観念性の経済・社会構造,によって基礎付けられる。

 第一に,観念性の経済構造。川島によれば,この近代的所有権の観念性は所有物の「価値 Wert」によって規定されている。どういうことか。封建制社会の場合主君から領主への特権(=封)に基く土地に対するゲヴェーレは,領主と土地を直接耕す農奴の人間関係も規定するが,ゲヴェーレにより重きが置かれているのは土地利用そのものである。それに対して資本制=近代社会の場合は分業が進み,「すべての物は商品としての性質を帯びせられる」(102頁)。そして商品は市場経済システムの中で取引される。その中で物は貨幣という統一的な杓子定規により価値が表される。そこで商品は,物本来が持つ個別的・質的な利用は捨象されて量的な価値により承認されるのである。つまり,あらゆる商品が市場において貨幣を媒介にした量的な価値として還元されることにより,物々交換の煩雑さを解消することができる。そして,川島が最も重視するのは,自らが所有している物を実際に使うことではなく,しばしば「不動産の資産価値」という言葉で体現されるように,価値があるがゆえに所有するという論理が,まさに,観念的な貨幣価値により担保され,所有権の観念性を規定しているということである。そして所有している不動産は現実には自らが利用せず,賃貸借契約を結ぶことにして,現実の支配から離れて賃料という利益を上げる,といった具合に資本制社会の発展に尽くすわけである。なお,注意して欲しいのは,物質的存在から抽象されると言っても民法において「物」とは有体物のことを指す(民85条)が,このことと近代的所有権の観念性は矛盾しないと川島は言う。これは空気・ガスといった無体物は対象の境界線が曖昧であることに対して,境界線が明らかな・白黒はっきりする有体物は「所有している/所有していない」という全か無かAlles oder Nichts, All or nothing という単純なバイナリー・コードとして扱うことができるところにうまみがあり「法律技術的表現」であるとする(102-103頁)。

 第二に,観念性の社会構造。近代的所有権の観念性は特殊=資本制的な近代社会の社会関係の所産なのである。「資本制工場生産は大規模の分業と協業の基礎の上に立」つことから相互的に独立して生活することができなくなる(106頁)。このことは何を意味するかというと,所有権の私的性質=「排他的独占」だけでは生活はできないということに他ならない。すなわち,資本の投下と分業という生産形態を近代社会を取ることで,労働力という「商品」から一度生産された「商品」は他の「商品」として交換され,それが幾たびか繰り返されて消費者の「商品」となる。ところで,近代的所有権は私的性質と社会的性質に分裂し,対立すらしていたのだ。この社会的性質こそが契約であり,契約という社会関係により所有権に基く商品交換を行っていくのが資本制=近代社会の社会構造になる。

 そして,以上2つから第三として,観念性の政治構造が説明される。「政治的には,所有権の保障がここの人間の手から離れて,市民社会の全体を支え且つ市民社会の全体に支えられるところの特殊=近代的な国家の政治権力に移った,という歴史的事実」(108頁)が説明される。市民社会の中に包摂された市民は相互に所有権を尊重し合い,自らの所有権は「市民社会の政治的投影としての市民的国家によって」(109頁),保障される。そこでは自力救済は禁止される。

 以上をまとめると,次の3つになる。第一に,近代的所有権からなる物権法・債権法,そして私法・公法を含む近代法の法律関係が所有権の観念性の上に成り立っていること。第二に,近代的所有権は価値交換機能を有するから「高度に私的な性質を持ちながら,同時に特殊=近代的な社会的性質を持っていること」(111頁)。第三に,近代的所有権においては,現実の支配は所有権から分離するのである。

 


⑵ 所有権の観念性・絶対性と物権的請求権=「3 物権的請求権」(112-124頁)

 川島は所有権の観念性・絶対性を表現する物権法の制度として物権的請求権を挙げる。川島によれば,「物権的請求権は,物権の・物に対する支配を確保するため,妨害者に対し妨害の排除を請求することを内容とする物権の権能」(112頁)と定義される。これには異論はないだろう。そして物権を根拠とする請求権が「⑴物権の「性質」からの論理的帰結として,および,⑵占有訴権に関する規定からの類推によって」(112頁)認められていることこそ,所有権の観念性・絶対性を表しているとする。すなわち,物権的請求権が物権に由来しているということは,現実の事実上の支配はしていない,まさにその事実に基いて事実的支配を目的とするのであるから,物権の観念性を表しているのは明らかであるのだ。

 しかし,なぜここで物権的請求権自体を論じているのだろうか。川島によると,「すべての物権が原則として所有権を典型として構成されていること」から,「物権的請求権の「構成」は,所有権に基く物権的請求権の延長である」とする(120頁)。

 ここで,川島は占有権(民180条)・留置権(民259・302条)・動産担保権(民344・352・353条など)に着目し,これらが「現実的支配をしていたという事実に基いて占有訴権によってのみ返還請求をなし得る」(114頁)ことに着目し,担保物権を「まだ経済的に高度の発展をとげない時代の法的思想を反映する物であり」「はなはだしく時代遅れのもの」とする(同頁)。

 周知のように物権的請求権は妨害者と物権者の間の法律関係である(例えばA所有地が自身で崩れて隣接するB所有地上に土砂が堆積した場合に,BはAに対して妨害排除請求権を持つ)。このときに物権者は妨害者が誰であっても常に一様に物権的請求権を妨害者に対して持つ。そして債権(例えば賃借権)でもこの物権的請求権の成立を妨げることはできない。この点で物権的請求権は絶対権とされる。

 物権的請求権,とりわけ妨害排除請求権では物権法の授業で必ず扱う論点がある。それは言うまでもなく物権的請求権の性質,「物権的請求権は行為請求権か,受容請求権か」(淡路剛久=鎌田薫=原田純孝=生熊長幸『民法Ⅱ』(有斐閣Sシリーズ)15-17頁参照)である。これに関して判例・通説は妨害者である被告が妨害除去の費用を負担する,としている。しかしながら,当事者双方の物権的請求権が衝突する場合がある(先の例ではBのAに対する妨害排除請求権とAのBに対する土地返還請求権が衝突する)。先の判例の理論をそのまま用いると先に請求権を行使した者が相手方の費用で物権を回復できることになり,ややもすれば不都合な結果が生じる恐れがある。そこで川島は当事者双方の物権的請求権と「責任」(契約責任・不法行為責任・法定責任)を峻別し,「責任」の有無で物権的請求権の行為請求的側面・受容請求的側面を考えると言う解釈を提案している(117頁)。

 また,川島は「近時債権が経済社会人おいて有する地位ないし機能が支配的となり,諸々の経済的利益の支配が再建として存在することが圧倒的となる」に鑑みて 、債権を「単に当事者間の対人関係にとどめることなく,一般第三者に対しても対抗し得べき絶対権を必要が感ぜられる」ために「第三者による債権侵害を不法行為としようと」したり,「物権的請求権の法理を債権に類推しようとする解釈論」が出てきたことに着目する(117頁)。典型例は賃貸借契約に基く不動産の賃貸=利用が妨害される場合である。そして判例(=大判大10・10・15民録27輯1788頁)では賃借権そのものに基く妨害排除請求権が認められた。そこからいわゆる「賃借権の物権化」と呼ばれるような賃借権の法的強化へと繋がっていくと言われるわけだが,川島自身は他の判例において,賃借人がいまだ目的不動産を占有する前にその目的物を不法に占有する者に対して妨害排除請求権が成立するか否かに関して,成立しないとした(大判大10・2・17民録27輯321頁)ものを出した。これが意味することは次のようなことである。すなわち,「要するに、判例法が,占有および準占有に基く占有訴権の範囲をこえて新しい法理を創造したと見ることには,疑念の余地があると認められるのである」(119頁)。つまり判例は事実そのもの(=占有権)の保護にとどまり,この点,債権の物権化ないし絶対化は認められず,絶対性というものは物権とりわけ所有権に特有のものと言えよう。

 今まで物権的請求権を論じてきたが,我が国の民法典のどこにも物権的請求権の規定がない。それにもかかわらず物権的請求権がさも当然あるかのように疑問視されない。教科書的な理由としては,占有権についての占有訴権を認めており(民197条以下),物権は占有権よりも「強い権利」だから当然に物権的請求権が認められるという論理が挙げられる。しかしながら川島によれば「占有訴権は物権的請求権と同一平面上において推論することには,理論的に疑いがある」ものであり,占有訴権が現実的支配そのものを保護するものであるのに対して,物権的請求権は観念的支配を保護している(120頁)。要はこれらは性質上正反対(「対蹠的」)な論理なのである。他にも「権利の性質上当然である」,「物権の絶対性は物権的請求権を必要とする」,「民法が占有の訴のほかに,「本件の訴」なるものを予定している」といった理由づけは,解釈論的理由としては十分だがトートロジー・言い換えにしかなっていない。そもそも近代的所有権の絶対性そのものの理由に問題がある。そこで近代社会特有の歴史的性質としてそのものからのみ理論的理由があるとする。

 


⑶ 民法体系における占有訴権制度の意義=「4 占有訴権」(124-152頁)

 「占有訴権は,物に対する事実上支配が侵された場合に,その現実的支配そのものを理由として侵害の排除を請求する権利である」(125頁)。これらは物権編の中で規定されている制度である(民190・202条)。いうまでもなく占有訴権は物占有していたという事実そのものを保護する制度であるが,この点だけを見ると前近代におけるゲヴェーレと異なるところはない。そこで問題は,近代的所有権の歴史的性質により契約法・人格法(総則)から分化し,観念性を持つ物権法の中に現実的支配を保護する占有(訴)権が規定されていることの意味ということになる。

 川島は,ローマ法のinterdictum possessionesを我が国の民法に規定されている占有訴権の理解の鍵とする(注2)。

 川島によると,我が国の民法における占有訴権はローマ法のinterdictum possessionesに由来する。そしてinterdictum possessionesは「天下万人に主張し得べき物権(本権)に基いて生ずるのではなく,ただ事実上の侵害を理由として特定人間の相対的関係である」(126頁)。interdictum possessionesがなぜ使われたかというと,自らの所有権原の証明の困難さ(“probatio diabolica”)から生ずる支配の保護の必要性による。つまり現代の占有権が「仮の」保護を与えるのに対して,interdictum possessionesは「本権の保護の手段であり,したがって,それは所有権に基く訴と同様に占有の権原そのものを問題とする」(128頁)。つまりローマ法においては事実ではなく権利が保護となっている。その意味で「占有訴権は「物権」保護手段であった」(129頁)。しかしながらあくまでも近代法における物権のような観念性を有することはないのであり,「現実的支配に結びついた物の利用関係を保護する物にほかならぬのであ」る(130頁)。そして当時の占有訴権は極めて制限された,特定の人々(=自主占有者と他主占有者)のみに限られていたことを踏まえれば,所有権そのものとも対立することはなかったとする。

 古代ローマが衰退したのちにヨーロッパ世界を支配したのはゲルマンの中世的封建制である。そこでは物的支配を現実的な支配の上に基礎付けるゲヴェーレの法理が確立された。ゲヴェーレの事実的・具体的支配に基づく所有形態は前述した。しかし,これとは別に「封建的体制特有の制度」としてactio spolliとsummariissimum possessoriumが作り出されたという(132頁)。これはどういうことなのだろうか。例えばsummariissimum possessoriumは人の身分に関係なく現在の占有事実そのものを保護するものと解される(もっとも,「人それぞれの社会的地位に応じて,彼に適用される法規とそれを適用する裁判所とをことにしたのであるから,占有の訴で争い得ない者はそもそも当該の法の平面では権利能力者として登場してこない」(134頁)。つまりローマ法におけるinterdictum possessionesが特定の人々のみを限定した占有保護制度であったに対してsummariissimum possessoriumは純粋な事実上の支配を保護することになる。

 古代ローマ,そして中世ゲルマン世界において,現実支配に基づく「仮の」保護が本権たるローマ的所有権・ゲヴェーレと融合した(すくなくとも量的な差異しかなかった)のに対して,なぜ近代では占有訴権と所有権が分離した(質的な差異を持った)のだろうか。その答えは前述した。すなわち資本制社会特有の経済システムにおける貨幣価値の抽象性とそれに伴う所有権(物権)自身の観念性による。また,「悪魔の証明」とされてきた物権的請求権を成立させるための所有権の証明の困難さが取り除かれたことも挙げられる(例えば,不動産登記の普遍化と公示主義)。自らが本権を持っているという証明が(中央集権的国家の補助もあり)単純化され,「所有権に基く物権的請求権は,いわば中世的な占有訴権を自己のうちに吸収した」(137頁)。では,次に我々が問うべきことは,もちろん近代民法における占有訴権規定の意義である。なぜ事実的支配を保護する占有訴権と観念的支配を保護する物権的請求権は対立する規定であるにもかかわらず,同一の法典に存在しているのか。

 川島によれば「物権法の体系における占有訴権の地位は,単にローマ法との系譜的関係の考察のみをもってしては説明され得」ず、「近代的所有権によって条件づけられ基礎付けられているところの,近代的な制度なのであ」る(138頁)。前近代から近代へ移行する際に,所有権の客体が利用から価値へと移行したことは前述した。そうなれば,まさしく利用は法律の中で保護に値しないものになったのか。もし利用の保護を忘れているとしたら,前述した不動産の賃借権の第三者にも及ぶ保護が判例で認められてきたことは説明できないのである。では利用をいかなる制度で保護するか。それこそが占有訴権の意義に他ならない。川島によれば,このことは少数の観念化された物権の価値の保護とは対立していない。つまり近代的所有権の社会的モメントたる契約法に基づく「人と人との関係」の中で本権を持っている者から賃借する者の保護として占有訴権は不可欠の制度だったのである。これはまさに近代的所有権が前近代の占有訴権を吸収し,そして私的モメントと社会的モメントに峻別されたことに由来する。主に前者(物権法)において観念的な物の価値を,後者(債権法)において現実的な物の利用を保護することになる。そして占有権が物権法(所有権法)の中に規定されていることが近代法を所有権をもとに語る理由に他ならない。

 


(1)所有権の絶対性について。第3章を読む限りでは「法社会学的には物権の絶対性もまた一つの歴史的存在でしかない」(95頁),「近代社会における諸条件によってうけている歴史的性質そのものからのみ正当に抽き出され得る」(121頁)がせめてもの記述となっている。もっとも第3章の構成として第1章では近代的所有権の「観念性」に重点を置いているようである(22頁)。

(2)ローマ法における占有原理の説明について。ここでの川島の説明は近年の木庭顕東京大学名誉教授(ローマ法)の緻密かつ濃厚な「三部作」をはじめとする一連の研究に比べるべくもない。しかしながらあくまでも川島の思考を追うために当時のローマ法研究として川島のテクストを見ているに過ぎない。すなわち,川島『所有権法の理論』では,正確なローマ法研究は少なくとも現代の基準では現れないが,そうであるからと言って当時の研究状況を無視することはナンセンスであり,川島『所有権法の理論』そのものの射程をも見誤る恐れがある。

 


参考文献

川島武宜『所有権法の理論〔新版〕』(岩波書店,1949=1984年)

我妻栄近代法における債権の優越的地位」『同』(有斐閣,1953年)所収