京都での断片(駄弁)

梅田

僕と一緒にお酒を呑んでくれる人なんてなかなかいないが,僕と全然違う環境に置く人と一緒に呑むというのはとても刺激的だった。

その人も何か自己実現があって体が弱いながらも頑張っているらしい(ちなみに僕はその人から手相を占ってもらったのだが,運命線がすごいらしい)。

蛸壷状態になりがちな僕と話を合わせてくれてとてもありがたかった。

実際の人がいざ「法を使う」とするときにどういう考えをするのか大変勉強になった。

 

死の近さ(されども遠い)

梅田で呑んだ後,僕らは阪急で帰路へ向かっていた。

河原町(終点)まで着いたのだが2人とも寝ぼけていたので到着したことがわからずそのまま桂行きになった電車に揺られた。

桂駅の目と鼻の先で人身事故が起こった。

なんと自分たちが載っている電車が「人身事故車両」となってしまったのだ。

午前0時を過ぎた電車の人身事故。

なかなか電車も動かず,野次馬のおばちゃんたちも興味津々。

翌日分かったのだが,轢かれた人は踏切で酔っ払って寝てたらしい(Kさんは下手に精神科の知識があるから人身事故の理由を全然違うものと予想していた。無駄の一言に尽きる)。

僕は初めて人身事故を実際に体感したのだが,おそらくそこで感じた「死」への身近さはどんどん薄れていくようにも感じる。

社会学者のウルリッヒ・ベックは現代(=後期近代ないし「再帰的近代」)を「リスク社会」と呼んだ。

これが言わんとするところは技術の進歩によって再帰的にリスクが高まっていくということだと僕は理解している(この発想はN・ルーマンの「複雑性の縮減」と社会システムの複雑性の増大の相関と似ていると思う)。

また,平成の末期から話題になった「終活」も死をむしろ人生の一部として組み入れている点で死に対しての肯定的でなくともある種の「否定的でない」評価を下しているとも言える。

もしくは社会学者の古市憲寿が出した小説『平成くんさようなら』で描かれたような人間像の実態との遊離ないし尊厳死の高まり。

やはりここでも現代特有の死に対する態度はまさに現代特有としか言えない独特の・技術的要因・道徳的要因を考えさせられる。

しかし,現代でなくても,「死は生の対極としてではなく、その一部として存在している」わけであり,それにも関わらず死んでいない以上「死」というものを正確にはわからない(だからこそイェール大学で23年連続講義をしているというシェリー・ケイガンの『死とは何か』が日本で少し話題になったのかもしれない)。

サンスクリット文明の輪廻転生という概念はその最たるものである。

人間の死を理解する・コントロールするという欲望はどこから来るのか。

 

社会(?)

現代において社会を想定することは可能なのだろうか

例えば社会問題とすることに社会の構成員が本当に問題意識を持っているのだろうか。

近代理念としての,(市民)社会の構成員のような,自由・平等で抽象的な人格=市民は果たして想定できるのだろうか。

特有の利害・団体集団に分断されていくと見る方がまだ良い気がする。

あるいはN・ルーマンの社会システム論で論じる,近代の法・経済・政治・教育・宗教・科学のシステムとしてのそれぞれがautonomyを持った自律=分化。

ここにおいて全体社会をシステムとして想定する必要はなくなる。

なぜかというと「社会なるもの」の中で起こると言われるコミュニケーションは全て下位システムたるものに振り分けれられる。

この抽象的な市民としての連帯(友愛)と各社会システムの分離をどう考えればいいのか(そもそもルーマンの社会システム論を物差しとして考えてみるのはとても有用であるように思える佐藤俊樹『社会科学と因果分析』(岩波書店,2019年)参照)。

 

相対主義の時代

現代は相対主義の時代とよく言われる。

今でもまだ公開している『ジョーカー』のヒット要因はこれもあると思われる。

映画の中でジョーカーは善悪の主観を主張する。

しかしそれ以上のことを主張している。

それは正義の主観性である。

正義はある人の道具に成り下がってはならないと内在的に主張する。

しかしながらいくら「べき論」を唱えたところで現実の問題は対処できない。

教育が問題だから良くしようとしても学力差が自己責任により正当化され,経済政策も同様になるわけである。

自己責任,すなわち自由意思は人間の原因を交代させないために高度に作られた究極のメカニズムなのだ(小坂井俊晶『神の亡霊』(東京大学出版会,2018年)参照)。

しかしそうだからと言って絶対的な悪はないのだろうか。

われわれは全体主義に傾かないためにはどうすればいいのか。

近代の自由・平等で自由意思を持った市民主体を想定すると,いかなる問題も最終的にはひとまず片付く。

しかしすぐに新たな問題が発生する。

近代の理念は近代と呼ばれる時代の中で絶えず非近代と戦ってきた。

しかし近代の理念が完全に実現されればそれは「閉じた社会」になる。

近代という時代は絶えず近代/非近代という理念の中で綱渡りをしているのかもしれない。

そう言った意味で相対主義は役に立つかもしれない。

しかし相対主義の表面をなぞり,自らの主張の道具とするとなるとそれはジョーカーを生んでしまう。