社会問題と司法の応答(2)

前回;社会問題と司法の応答(1) - pompombackerの徒然

 

Ⅳ 裁判所の組織と判例の位置


 前節で提起された日本の裁判所の「鈍感さ」の要因の検討に入る前に以下の2つを考える必要がある。すなわち,⑴法を全体社会の中の部分社会システムと捉えた際に,裁判所という法的機関の法システム内の位置付け,⑵裁判所,とりわけ日本を含む大陸法の裁判所,における判例の機能を考えていこう。

 ⑴裁判所の法システムでの位置付け

 前近代において未分離であった法・政治・経済・教育・科学・宗教といった諸権威が近代の訪れにより自律=分化していくシステムになると考えると,法システムは(全体)社会の中の1つの機能システムとなる(注9)。裁判所は法システムに持ち込まれてきた事例を「法の問題」として単純化し,個別具体的な問題を法システムの中に体系づけ,類似の事案に対し同じルールを用いて処理していく。この点で先例に接続した法判断を期待されることは言うまでもない。

 また,法システムの中で裁判所は法的コミュニケーションの複雑性を減少することは指摘できるであろう。これは法律の解釈という問題に関わる。つまり法律の文言をそのまま適用すれば結論が著しい不正義が生ずると(少なくとも裁判官自身が)考えるときや法律の抽象性から具体的な結論をそのまま導くことができないとき,または過去の先例はあるが時代の変遷により変更が必要であると(これもまた少なくとも裁判官により)考えられるときに裁判官の裁量を認めざるを得ないことはある。しかしやはりこのような解釈が法システムの中で大きな影響をあたえるのは他でもない権限を持った裁判官によってなされたからである(注10)。この点で裁判所は裁判官による法解釈の正当性を辛うじて成り立たせしめ、そして法ドグマティークの記述をしていく機関である。このように考えると法システムの中で裁判所は核心的位置を占めていると言える。逆に他の機能システムとコンタクト・ゾーンを持たない(注11)。

 ⑵裁判所における判例の機能

 上記を踏まえると裁判官にとって判例とは如何なる意味を持ち,法システム内ではいかなる機能を持つのだろうか。

 裁判官にとって判例法源としての意味を持つのだろう。上述したNOハプサ訴訟においても靖国神社と殉職自衛隊員である夫の合祀を拒むクリスチャンとの間の価値対立を判事した自衛隊靖国合祀訴訟(=「最高裁昭和63年判決」)から判決を導いている。ここで昭和63年判決で示された寛容法理をさらに事案に適合するように解釈されている。この点で法律の解釈と異なる点ではない。もちろん,裁判官は判例を変更することは可能である。裁判所法4条は「上級審の裁判所の裁判における判断は,その事件について下級審の裁判所を拘束する」と規定している。しかしこれは,同法10条に最高裁判例変更を予定していることなどから,当該の事案について上級審の判断が下級審を拘束しているに留まり,コモン・ローのような判例の拘束性は持たないと解するのが通説である(注12)。しかしながら事実として,判例は裁判官の解釈材料となっているのだ。

 法システム内における判例の機能をここでは3つ挙げてみよう。

 第1に,判断の再生産機能。類似の事案に対し裁判がなされ,たとえ先例にやや不備がある場合でも判例そのものを裁判官が再解釈することで法理として洗練されていくことを期待する。また,「先例に従って裁判をするというのは,おそらく多くの裁判官の習性であり,そのことによって,裁判の理想である正義と衡平がはじめて実現できると考えられる」(注13)。こうして先例の基本姿勢を崩さずに修正を通じて,しかし先例を踏襲した判断が繰り返される。これによって裁判官に限らず,当事者(弁護士)も訴訟結果の予期を高めることができる。つまり類似の事案に対して訴訟を提起する際に如何なる場合に裁判所は先例と同じような判断を下すかを予測することができ,効率的な証拠集めをすることができるのである。反対に,先例が類似の事案では自らにとって不利な判断を下している場合,当事者はいかに類似事案と異なるかに関する弁論・証拠を集めるという行動をすれば良いことになる。いずれにせよ,裁判官でなく訴訟の当事者にとっても先例の枠組みで行動することにより自分たちの行動の選択肢を縮減することができると言える。

 第2に,法ドグマ記述機能。法システムの制御のためにつきまとう法ドグマティーク(Rechts dogmatik)の記述に貢献する(注14)。判例が善いか悪いかにかかわらず,法律家は類似の事例に出会した場合にその判例を参照しなければならない。言い換えると,ひとまず法システムの核心部分が外部の複雑な環境にいかなる法的意味づけをしているかを確認するという要請に晒されるわけであり,そこでは法的意味づけ以外の意味づけは捨象されるのである。すなわち,法システムの普遍性を保持するために個人から社会-経済的条件を排除し,自由で平等な個人に還元してコンフリクトの処理にあたるのである。そして個別具体的な問題を法システムの中に体系付け,そして関連する事例との整合性を吟味していく(あるいは,法律家によって吟味されていく)。この過程の中で法システム内での判断の意味づけという作業(例えば,学説の通説との異同などの諸評価)がなされる。そして,裁判官もまた法ドグマに拘束されて法律・判例を解釈していることから「別様でもありうる」判断を任意に制限していく(注15)。ここでは,法ドグマによりなされた解釈が法ドグマを記述していくという循環的な作用が観察される。

 第3に,司法信頼機能。一般的に,我が国の判例の形成は個別具体的な訴訟を通じてなされる。そもそも法律上の争訟として具体的な権利や法律関係に関わる紛争と承認されなければ訴訟として司法により裁定を下されることはない(裁3条)。特に民事訴訟の場合,法律上の争訟は,「当事者間の具体的な権利関係の存否に関する紛争であって(事件性),それが法律の適用により終局的に解決できるものであること(法律性)と定義される」(注16)。ところで,通常の場合に判例とは最高裁判所(=法律審)の判決理由を示すものであるが,すべての上告された訴訟が常に最高裁に専属することはなく,最高裁に一定の裁量を与えている(最決平11・3・9判タ1000号256頁)。そして最高裁判例を作るのであるが,最高裁による上告理由に関する裁量があることで法ドグマの記述に貢献すると認められた紛争が抽象化されて判事される。この裁量をどのように見るかは判断の分かれるところであるが,最高裁判事らの時間的余裕・負担の軽減がなされるという点ではより踏み込んだ法解釈が期待できる。そして,既存の法秩序では不確定ないし不満が残る結果が生じることから,一元的な制定法では原理的に不可能である当事者間の個別性を勘定に入れるという点でも判例の意義を見出すことはできる(注17)。この点で法使用を行う市民による司法信頼がなされるわけである。

 また,判例を創る作業自体が法システムにとって信頼機能を担保することも言えよう。すなわち,政治システム=立法とは異なった法システムの自律性が判例という言葉自体に内在しているとも言えるかもしれない。言葉を換えれば,「立法ないし政治のシステムからその自律性を担保する,法システム」の「独自性ゆえに,裁判所の裁判には,国民を代表する機関たる国会が制定した法律とは別に,判例法を形成する資格が認められると考える」(注18)わけだ。必ずしも立法者の意思(=「法律」)とは限らないが,しかしそうであるがゆえに,社会の変動に対応するべく裁判官による柔軟な判断(=「法」)が要請される。判例を創造するということはその最たるものである。

 最後に,判例が定立されるということは,法学者にとってみればその法律関係に関して考えざるを得ない機会と同義である。そこでは法システム内部自身の自己批判機能も観察される(注19)。この点は前述の法ドグマ記述機能と関わっている。

 以上,法システムにおける裁判所及び判例の位置付けを行った。ここで示されたのは判例は類似の判断に対し参照されるべきものである。この点で事実上の拘束力を持つ。しかし他方で,社会の変化に伴って,あるいは先例の欠缺を補完しながら,判例は修正・洗練されていくことが期待されるのである。ゆえに,裁判官は担当する事案において先例と睨み合いながらいかに異なるかを検討しなければならない。裁判官は「支配的な意見に反抗してもよいし,上級裁判所を挑発することもできる。ただし,納得できる論拠を示さないといけない」(注20)のである。いわば判例のドグマ的遵守か,それとも先例の変更か,を特に判例が蓄積してきた現代において綱渡りのようにバランスを取りながら具体的な判断を区別しなければならない。つまり先例の過度な遵守は司法の信頼を失う可能性が大きくなる。場合によっては異なるコンテクストであっても類似の事案として処理する,ないしは先例の判断が大きな批判を受けているにもかかわらず,先例と同様の判断を下す「判例の批判的検討の欠如」である(注21)。

 他方で,我が国の司法は「司法消極主義」と揶揄される嫌いがある。筆者自身は完全にそうだとは思えないが,このような指摘が出てくること自体に着目して,我が国の司法構造を分析していきたい。

 ひとまず我が国の裁判官の種類とその任命手続きを概観しておこう。2019年12月の時点で,裁判官の種類と各定員は最高裁判所長官(1人),最高裁判所判事(14人),高等裁判所長官(8人),判事(2125人),判事補(927人),簡裁判事(806人)となる(裁職定1条)。そのうち,最高裁長官は内閣の指名に基づいて天皇が任命し(憲6条2項,裁39条1項),最高裁判事は内閣が指名して天皇が認証する(憲79条1項,憲7条5号,裁39条2・3項)。次に,高裁長官は最高裁の指名した者の名簿によって内閣が任命し,天皇が認証する(憲7条5項,裁40条1・2項)。判事は天皇の認証なしで最高裁が作成した名簿に基づき内閣が任命する(裁41条1項2号)。判事補は司法修習を終えて任命される(裁43条)。簡裁判事は,地裁・家裁・高裁に勤務する判事とは異なる,独自の種類の裁判官である。

 我が国の司法構造は,簡裁判事を除いた種類の裁判官はいわゆるキャリア・システムの下で次第に昇進させていく体制を採用している。すなわち,司法修習を終えて判事補に任命された時点から司法に抱え込まれるわけである。また,このキャリア・システムの裏返しとして,裁判官たちによる司法行政を担う。司法行政とは主に裁判官をはじめとする職員の任免・配置・監督など人事管理を指す。最高裁判所事務総局という組織が司法行政の中心となるが,先述したように,最高裁が下級審長官・判事の指名名簿を作成する権限を持っているので,いわば最高裁長官を頂点とした官僚構造になっている。確かに司法行政の権限を行政権から獲得したことによって,行政権から完全に独立し司法が目指すべき「大きな正義」の実現を達成するために自らの人事を自らが統制を行うことは不可避であったかもしれない。しかし,これはやもすると,本来憲法と法律のみにしか拘束されないはずの個々の裁判官の良心の独立を蝕むことになる(注22)。

 人事判断そのものはブラックボックスである場合,キャリア・システムの中で生ける裁判官個人にとって重要なものは,「小さな正義」の実現は後退化し,代わりに昇進や最高裁事務局をはじめとする「上からの評価」が前景化する。そうなると,例えば,事案の判例との相違性により下級審が「判例に小さな穴を開けたい」と考えることすらなく,下級審が妥当だと思う判決ではないものが最高裁で出たら「法的な安定性」の見地から「疑問は抱きつつも,最高裁判決は正しいもの」と考えなければならないと下級審の裁判官は思うようになる(注23)。ここで司法に官僚制が有する逆機能が観察される。つまり,人事評価の不明瞭により下級審の裁判官が洗礼に従わなければ①人事評価が下がるという予言が裁判官たちに流布し,②先例を遵守した判断を下すことになる。この際,判例遵守という規律自体が自己目的化してしまい,「目標の転移」が生じる。すなわち,裁判官の「心情の重点の置き処が組織の目的〔=個別具体的な「小さな正義」の実現〕から転じて,〔・・・〕要求されている行動の特殊なデテールの方へ移る」(注24)。こうして③当該事案とは遊離した特殊・具体的なコンテクストにより形式主義の暴走・組織目標達成の阻害が生じる。①~③が繰り返されるようになり④「先例の過剰遵守」という規範の完成・強化がなされる。これにより①が再生産される。この予期の自己実現こそまさに,「官僚制的な裁判官組織と集権的な司法行政監督との結合から発展した司法行政システムの病理」(注25)である。

 前述したように,法システムの核心部分が裁判所であるとすれば,個別具体的な紛争を解決しようと法を使う市民からの法の信頼機能は不全になる。この点において本来裁判官は「綱渡り」をしなければならないが,日本の官僚的司法構造はそれを蝕む。それゆえに「司法消極主義」というレッテルが貼られてきたとも言えるかもしれない。

 日本に限らず,近代大陸法体系における官僚的司法構造の病理に関する指摘は今に始まったことではない(注26)。そして我が国においては,むしろ「司法官僚」といわれるような現象を打破すべく,2000年代初頭には司法改革の一環として裁判官の人事面に関わる2つの改革がなされている。2つの改革とは,下級裁判所裁判官諮問委員会(指名諮問委員会)の発足と「裁判官の人事評価に関する規則」の制定である。前者は改革でなされた提言の一つである「裁判官の任命手続きの見直し」を,後者は「裁判官の人事制度の見直し」,つまり透明性・客観性の確保の要請,をそれぞれ具現化したものとされている。

 これらの改革により透明性が確保されたのかというと,疑問は残る。指名諮問委員会に関しては,メンバーが高位裁判官・検事で「判断基準は非常に抽象的であり,審議の内容も公開されないので」,「みずから手を汚すことなく,特定の裁判官の再任を事実上拒否することが可能になる」という意見もある(注27)。また,人事評価制度の改革についても,判事補・判事については所属裁判所の長が,評価権者が多面的・多角的に情報を把握して評価を行うが,これについても,裁判官任官希望者の評価基準の主観化・恣意化が指摘されている(注28)。この人事評価には裁判における訴訟当事者からの意見も反映されるという。これは裁判官自身による先例を発展させる意味での判例形成を困難になりかねなくさせる(注29)。

 このように,司法改革が行われた後でも我が国の裁判所の官僚構造・閉ざされた世界は残ったままである。司法改革によりさらに司法官僚の弊害が助長されたかどうかを判断するのは意見が分かれるところであるが,ここでは評価をしない。むしろ,そもそも法システムとは行動上で閉鎖性を帯びていることを自覚して,そして戦後の司法において恒常的な官僚構造が見られ,にもかかわらず下級審は先例と睨み合わせをしながらも判例形成をしてきたことに着目していきたい。その判例の中で,我が国の高度経済成長の背後で生じた四大公害訴訟は,裁判官による法創造が必ずしも先例により導き出されなかったと言える。つまり法が社会問題に対して「応答」してきた分野とも言える(注30)。次節以降,四大公害訴訟の特徴・訴訟結果,そしてその社会的背景・影響を見ながらNOハプサ訴訟で要求された道義的態度が法システムに馴染むかどうかを考える。


9)有意味なコミュニケーションに接続しようとするためにはそれに先立ったコミュニケーションを参照する必要がある。ここに社会システムの自己準拠性が暴露される。しかしながら社会システムは外部(=環境)の影響を全く受けないということを意味しない。すなわち,一方でシステム自身の自律性・統一性を保つために社会システムは作動上では閉鎖性を有する(オートポイエーシス)が,他方で環境を前提として,言い換えれば,環境からの刺激を自らが取捨選択しながらも依存しているという点において社会システムは構造上の開放性を有する(構造的カップリング)。

 例えば,経済システムは財の移転については関心を示すが,財の請求権が所有権に基づくものなのか,契約によって生じる自らの債権に基づくものなのか,に関しては興味を示さない。この点で経済システムは法システムの所有権・契約に依存しているが,法システムの作動上のコミュニケーション(つまり法的根拠が物権法の所有権に基づく物の請求権なのか,それとも契約に基づく請求権なのか,または契約の不適合があった際の損害賠償は,債務不履行の基づくものなのか,それとも不法行為に基づくものなのか,という法学上の議論自体)からは直接刺激を受けることはない。法システムも同様である。すなわち,経済的利害(例えば,貨幣的価値)を法的に保護される利益/法的保護されない利益へと咀嚼してコミュニケーションをしていくのである。ニクラス・ルーマン『社会の法 1,2』〔馬場靖雄ほか訳〕(法政大学出版局,1993=2003年)577-607頁参照。

10)これはまさにハートの言う「疑わしい半影」の解釈をひとまず「個人に対して,予知できないさまざまな形で生じる社会的諸要求を衡量して合理的に調整する仕事をまかせ,裁判所がそれを修正する」ことである(ハート・前掲注1)143頁)。そこでは事後に下される裁判所の判断が個人の判断を是認するか否かに関するひとまずの正しい解釈の基準となる。

 また,裁判所の判断の積み重ねで法が形成されていく英米法体系すなわちコモン・ローとは異なり,大陸法体系において裁判官は「建前上」では法創造の権限を持ち合わせていない。五十嵐清によると,19世紀以降のフランス,そして第一次世界大戦後のドイツにおいて裁判官が法創造という現象がいたるところに見られたという(五十嵐清「現代大陸法における法源の機能」法哲学年報(1965年)49頁)。にもかかわらず大陸法学者の中には裁判官による法創造という現象を無視したり批判したりする者もいたという。いわば三権分立というドグマを払拭できなかったとも言える。しかし事実として裁判官の判断が法創造と認めざるを得ないことをどう説明するか。

 ここでフィクションが現れると来栖三郎は指摘する。「裁判上のフィクションは,事実はTでT′でないと認定しながらも,「一定の状況がある場合には」,あたかもT′があるかのように,一定の効果をみとめることで,またその一定の効果をみとめる限りにおいてのみT′の事実があるかのように扱うのである。それは,法律の規定はそのままでは不当である(または不当となった)という見解に立ち,ただ建前上,裁判官は法を変更しえないことになっているので,表面的には法を変更しているのではない体裁をとりながら,しかし実質的にはその規定の修正,変更を行う意味をもち,その意味で一つの制度となったといってよい場合である。〔・・・〕フィクションは,裁判官という権限のある者によって行われたことを要する」(来栖三郎「文学における虚構と真実」国家学会百周年記念『国家と市民』第3巻(有斐閣,1987年)336頁注(31))。例えば黙示の意思表示(最判昭51・12・24民集30巻1104頁など)はその典型であろう。ここでは来栖は事実のフィクションについて言及しているがもちろん法解釈にもフィクション=擬制は現れる。つまり,「裁判官は法を作ることは許されないという原則の下で,解釈により法を発展させる場合に擬制にたよるのは,単なる表現形式の問題にとどまらない。そして歴史的擬制〔=「法解釈技術としての擬制」〕が歴史的擬制として独自の意味をもつのは,法解釈上用いられる場合であろう。そこで,ここでは,法解釈技術としての擬制と歴史的擬制とを同義に,すなわち解釈によって法を発展させる技術としての擬制の意味に用いる」(来栖三郎「「法における擬制」について」我妻栄追悼『私法学の新たな展開』(有斐閣,1975年)64頁)。

11)ルーマン・前掲注9)446頁。この意味の裏返しで法学者の存在意義はあるのではないか。大村敦志「法の変動とその担い手」同編『岩波講座 現代法の動態5 法の変動の担い手』(岩波書店,2015年)17-21頁参照。

 もっとも,ルーマンにとっては法学者(Rechtslehrer)が法システムに対して「契機」として与える変化は「法システムとは別の科学というシステム」からの刺激に留まる(ルーマン・前掲注9)3頁)。とはいえもはや法学者はDogmatikerに留まることは出来ない。しかしそうなるとG・トイブナーのいうところの「結果志向のパラドクス」が前景化してくる。グンター・トイブナー「結果志向」同編『結果志向の法思考 利益衡量と法律家的論証』〔村上淳一,小川浩三訳〕(東京大学出版会,1995=2011年)3-4頁参照。

12)我妻栄『新訂 民法総則(民法講義Ⅰ)』(岩波書店,1930=1965年)20頁。なお,筆者が現在時点(=2019年12月9日)で確認しているものでは,五十嵐・前掲注1)69頁及び伊藤正己『新版 近代法の常識』(有心堂全書,1960=1983年)157-158頁も同旨。我が国では,すべての裁判官は憲法及び法律にのみ拘束される(憲76条3項)。この法律の中に判例は含まれるとしたら,判例も法律上の拘束力を持つことになる。判例の法律上の法源性を否定するものとして,広中俊雄判例法源をめぐる論議について」『民法解釈に関する十二講』(有斐閣,1997年)159-176頁参照。特に172頁以下。

13)五十嵐・前掲注1)70頁。

 我が国の裁判官の習性として,英米法学者であり,「学者枠」として最高裁判事を歴任した伊藤正己は,「実際の裁判において結論をひき出すために可能な複数の解釈があるときは,出来るだけ先例と整合する解釈を選択することが少なくない」としており(伊藤正己『裁判官と学者の間』(有斐閣,1993年)34頁),特に最高裁判所の裁判官の外在的制約として①裁判が「一種の国家意思を形成する機能をもつ」ことに自覚的であり,それゆえの慎重さの要求,②判例法を形成することに応じた配慮(一般論を述べない,「特段の事情がない限り」といった文言をつけるなど),③現実との妥協があるという(同40頁)。そして,「学者的思考にたつと,社会の発展とともに法の新しい展開が望まれる場合に,立法がそれに対応しないときは判例法がそれに即して法を形成し,また変動させていくべきものと考えるのであり,判例のある場合にも,〔・・・〕社会的実態の変化にともない過去の判例を支えていた事実関係が異なるものと理解して,判例の適用範囲を狭める立場を取りがちである」のに対し,「裁判官的思考によると,まずもって立法的対応をまつこととし,それが期待できないときにもなお判例の拘束力をつよくみることになりやすい」(56頁)という。

 確かに法学者の思考と思考様式と裁判官の思考様式は異なるかもしれない。裁判官出身であり最高裁判事を勤め上げた千葉勝美によれば,裁判官の思考方法は,(もはや現在の法学者すら単純に行っているとは思えないが)「最初に判例法理を定め,次に,それに認定した事実を当てはめ,その上で,法的な結論を出す」,いわば法的三段論法ではなく,「法理がまずあるのではなく,具体的な事実を認定し,その事実の内容,性格等を吟味して,どのような法的判断をするのが妥当かを〔・・・〕直感的に考え」,「その上でそのような判断・結論を説得的に説明し得る法理・合憲性審査基準,理論,解釈等があるのか,十分に論理的な説明ができるのかを,〔・・・〕検討する」(千葉勝美『憲法判例と裁判官の視線 その先に見ていた世界』(有斐閣,2019年)224-225頁)という。しかしながら法的三段論法による「法律家的論証」も思考過程で事実を吟味して抗事実的な規範を参照し,結論を立てているのではなかろうか。そして,三段論法はいわばあたかもはじめから坑事実的規範があり,その後に事実があるかのように結論を導く弁術に過ぎない。ここには法学者と裁判官の思考方法に異なるところはない。むしろ,規範認定における裁判官のある種の直感性(=「リーガルマインド」と千葉が言うもの)が法学者との差異ではなかろうか。

14)田中成明によると,「ドグマとは,一般的に,真実であるとか正しいとあらかじめ思われたり決定されたりしており,そのために権威的拘束力をもつ意見・信条などを意味」し,「法的思考の場合には,このような性質を持った法ドグマにあたる典型的なものは,」「実定法秩序に内在的なものとみなされている法原理・法価値,判例,法律家の間で一般的に拘束的なものとして受け継がれてきている法理論・法格言・解釈技法,さらに,共同体員の間で支配的な正義・衡平感覚を反映した社会通念なども,法廷での議論や判決の正当化の権威的前提として重要な位置を占めるようになってきている」という(田中成明「法思考とイデオロギー」『法的空間』(東京大学出版会,1993年)194頁)。

 また,N・ルーマンは法ドグマティークがあることで逆説的に経験及びテキストと関わりながら自由度を高めるという。つまり、神意裁判のように,ドグマティークがなければ,テキストを解釈する自由すら持ち合わせていないという。その点で法ドグマティークは環境からの「過剰な意味要求の拒否という手段で,裁定の自由性を組織するだけである」(ニクラス・ルーマン『法システムと法解釈学』〔土方透訳〕(日本評論社,1973=1988年)23頁)。個人的には法ドグマティークがあるがゆえに①他のシステムの直接のコミュニケーションからの侵食を妨げる点,②事実と関わりながら多義的に法律・判例などのテキストを意味付けできる点で自由度が高まると認識している。

15)ルーマン・前掲注9)431頁及びルーマン・前掲注14)16頁参照。

16)安西明子=安達栄司=村上正子=畑宏樹『民事訴訟法〔第2版〕』(有斐閣ストゥディア,2014=2018年)6頁。

17)小粥太郎「制定法と判例法」大村敦志編『岩波講座 現代法の動態5  法の変動の担い手』(岩波書店,2015年)193頁。ルーマン・前掲注9)428-429頁も同旨。

 2016年に行われた「日本の民事裁判制度についての意識調査」の結果によると(調査対象である過払金返還請求事件を除く民事通常事件の当事者3146人のうち回答者は910人,回収率は28.9%),当事者の「裁判を起こした理由・裁判に応じた理由」として,「白黒解決」を志向した者(「強く・少しあてはまる」と回答した者)が70.4%になる。また「他手段なし」が92.2%に至る点から,ここでは正確な統計的分析を行う余裕はないが,当事者のニーズとして和解(裁判上,裁判外問わず)よりも訴訟による,白黒つける権利実現はやはり志向されるのではないか。山本和彦=岡崎克彦=垣内秀介=菅原郁夫=髙橋司「特別座談会 2016年民事訴訟利用者調査の分析」論ジュリ28号(有斐閣,2019年)162頁参照。

18)同頁参照。

19)ルーマン・前掲注14)7頁参照。ここで法学者は法律家としての顔を見せる。注11)参照。

20)ルーマン・前掲注9)455頁。

21)法学教育について,合衆国連邦最高裁でロー・クラークを勤め上げたダニエル・H・フットは,「判例とは常に進化し変化にさらされるものだという考えを強めていく合衆国の法学教育に対し,日本の法学教育は,先例とは統一的で安定したものだという考え方を育てている」と指摘する(ダニエル・H・フット『裁判と社会 司法の常識再考』〔溜箭将之訳〕(NTT出版,2006年)208頁。また,アメリカに倣い日本でロー・スクールが設立されても,「微妙な事実関係の違いに着目して以前の判決と後の事件を区別することは重視されていない」(同頁)という指摘も,示唆に富む。

22)瀬木比呂志『絶望の裁判所』(講談社現代新書,2014年)96頁参照。瀬木は元裁判官であり,最高裁判所事務総局民事局局付,最高裁判所調査官などを務めた後に2012年に依頼退官をした。

23)同上・28-31頁参照。瀬木自身の経験による。瀬木が沖縄地裁那覇支部へ裁判長として赴任した際,嘉手納基地騒音公害訴訟が係属していた。ここでは米軍基地の騒音に重大な健康被害が生じるような場合には差し止めが認められるという一般論を添えた判決文の下書きができた段階で,米軍基地に関する騒音差止請求を主張自体失当として棄却する最高裁判決がでた。これを踏まえて,瀬木らは評議をやり直し,最高裁の判決に従うと決めたという。

24)R.K.マートンビューロクラシーの構造とパースナリティー」 『社会理論と社会構造』〔森東吾ほか訳〕(みすず書房,1957=1961年)183頁前段。

25)六本・前掲注5)190頁。

26)思えば,古くはマックス・ウェーバーも官僚的司法の機能を論じていた(マックス・ウェーバー『政治論集 2』〔中村貞二ほか訳〕(みすず書房,1921=1982年)352-353頁)。ウェーバーは近代の資本主義社会,合法的支配に現れる「計算可能性」が,また法運用にも共通項として見出されることを説く。少し長いが引用しておく。

 「歴史的にみても,官僚制的な国家,合理的に制定された法律や合理的に考案された行政規則にのっとって司法と行政を行なう国家,そうした国家に向かう「進歩」は,近代における資本主義の発展と,いまやすこぶる密接に関連している。近代の資本家的経営の内部的基礎は,なによりも計算である。近代の資本家的経営が存続するためには司法と行政が必要とされるのであるが,このもののの機能は,少なくとも原理的には,明確な一般的規定によって合理的に計算しうるのであって,それはちょうど機械の能率があらかじめ計算されるのと同様である。〔・・・〕したがって,近代的経営形態は,つぎのようなところでのみ成立することができた。すなわち,イギリスにおけるように,法律の実際的形成が事実上弁護士の手中にあり,しかも弁護士が資本家的利害関係人の依頼に応じて適当な営業形態を考案し,さらにこれらの弁護士のなかから「判例」という計算可能な範式を厳守する裁判官が輩出したところ,これがひとつ,もしくは,合理的法律をもった官僚制的国家におけるように,裁判官が程度の差こそあれ法律条項の自動販売機になっていて,〔・・・〕それゆえ裁判官の機能がともかく一般に計算可能なところ,これがひとつ,この二つのうちいずれかの場合に,近代的経営形態が成立したのである。」

 すなわち,ウェーバーによると裁判官は「法律条項の自動販売機」となることで計算可能性が保障されるわけだが,経済・政治との整合性で法の合理性を考えることにより病理が浮かび上がってしまったように感じる。

27)瀬木・前掲注23)97頁。

28)同上・104頁参照。

29)フット・前掲注21)188頁及び六本・前掲注5)192頁参照。

30)「応答」という言葉はNonetとSelznickによる”A Developmental Model”の最終形態,つまり”Responsive Law”にちなむ。しかしながら”Responsive Law”そのものではなく,”Autonomous Law”に内在する力(inner dynamic, “potential for legal development”)としての応答性(responsiveness)に着目していきたい。あえて市民から突きつけられる諸価値に応答するために政治と手を結ぶことは「法が死ぬ2つの途(Two Ways Law Can Die)」に繋がる。See, Philippe Nonet & Philip Selznick, Law & Society in Transition,  (Transaction, 1978=2001) pp.70-72, 115-118.