日本における「法文化」論

Ⅰ 日本人は訴訟嫌い?

 

 戦後に登場した東大系の三大知識人といえば,川島武宜丸山真男大塚久雄がしばしば挙げられる。彼らは自身の学問的基盤に依りながら,戦後民主主義の旗振り役になっていたことは、諸著作から窺える(もっとも,日本が高度成長の波に乗り,ある種の「先進国化=近代化」が成されるようになると大塚史学などは求心力を失っていくとされているのだが)。

 「三代知識人」の1人である川島武宜は1949年に発表した『所有権法の理論』の中で,近代社会における意識について,次のように述べる。


 近代的人間の意識一般の基礎規定は,まず自分が独立の・他の何びとにも隷従しない主体者であるという自己意識であり,つぎに,他のすべての人間もまた自分と同質な主体者であることを認識し尊重するところの社会的な意識,要するに,社会的な規模において存在し且つ社会的に媒介されたところの主体性の意識である。(川島,1949年)


その上で,この近代的意識は近代的社会構造,そして近代的法体系が整合的に並んだ近代社会の決定要因とする。この近代的法意識に対比されるかたちで,日本人の権利及び法律についての意識を論じたのが『日本人の法意識』(1967年)であるとされる。いわば近代的法意識と「日本人の法意識」のgapに注目したのである。『日本人の法意識』の中で,川島は大きく3つのgapについて指摘する。その中の1つに,日本人が紛争解決手段として訴訟を用いることを避け,調停(ただし日本では言うなれば「仲裁的調停」であるとする)や和解などを好むという指摘がある(川島,1967年)。この状態の背景として川島は「和の精神」(=不確定的,非明示的な規範関係)を以ってしてまず「丸く納める」ことを志向する法意識があるとする。

 話はすこし地横道にずれるが,日本で法意識を論じられた背景は次の1点に集約されるだろう。すなわち,日本において近代法体系と呼ばれるものは日本が国家として列強諸国に認められるための,いわば「急ごしらえ」のものであり,そこには市民が使うこともあまりない,あったとしても西洋とは似て非なるものである,この日本における法の存在意義の不確定さに尽きる。

 


Ⅱ 川島以後の法文化(法意識)論の展開

 

 以上のような考察から始まった法意識・法文化論は,川島以後も法社会学の1テーマになった(もっとも,川島以後は「日本における民事訴訟率の(欧米と比較しての)有意な低さ」(尾崎,2019年)へと問いが変遷していくことになる)。川島の弟子である六本佳平は国民の法意識がその国の法システムの因子であるとする命題を「川島テーゼ」と定義し,川島テーゼを分析する。


 法システムの与件として作用する「因子」は,文化および社会構造の他に,政治・経済・科学・教育・宗教等々,法以外のあらゆる機能領域の中に見出される。(六本,1986年)


 ここで六本は文化を「象徴的意味の体系」(注1)とし,社会構成員にある行為の認識と価値判断を与える,いわば諸装置の共通基盤であるとする。「暗黙の了解」と言った方がわかるであろうか。また,「法意識」という言葉そのものについて,その不明確さを指摘し,法知識・法意見・法態度・法感情,および法観念に分割する考察を示している。そして『日本人の法意識』に示されるところの法意識は日本人がもつ方とはどのようなものかについて人々がもつ基本的な考え方とする(六本,1986年)。

 これとは別に,独特の法文化論としてアメリカの日本法学者を中心に議論がなされる。J・ヘイリーは日本の訴訟率の低さを制度面,すなわち司法アクセスの困難さ,に起因すると主張する(「裁判嫌いの新話」)。M・ラムザイヤーも人々の紛争処理方法の選考過程としてコスト(経済的,人的,時間的…)に制度面に起因するとした。このようにして,「制度説」と「文化説」の図式による学界の展開がなされた。そして,比較法学の泰斗である五十嵐清もこの構図に乗っかり,「折衷説」と,いかにも法律家らしい「学説」に収斂していった(五十嵐,2010=2015年)。

 一方で,六本の弟子である尾崎一郎は上述の学界構図を横目に見ながら,「文化」概念を再考する。尾崎はキムリッカの「社会的構成文化」の概念を紐解きながら,「文化とは,社会を成り立たしめている制度・行動・思想〔・・・〕の間の整合的で循環的な関係を,〔・・・〕総体として反省化し,理解し記述するために構成された概念である」とする(尾崎,2019年)。そして,そもそも「文化」と「制度」が同じ次元に立たないとし,「循環説」を提唱する。


 文化それ自体は実体のない概念であるが,その構成要素である,制度・行動・思想はいずれも観察可能であり実証的に把握できる。と同時に,それらは相互にそれぞれの規定因子であり被規定因子となっている。(尾崎,2019年)


 いわば,「問いの立て方が間違っている」ということだろう。つまり,「文化説」を取ればある意味正解であるが,それは何も説明したことにならないし,本質主義的説明につながる。しかし,制度だけで我が国の民事訴訟率の低さを説明できるものでもない。いわば,「司法アクセスの困難さ(=制度)」と「低訴訟率(=行動)」と「訴訟よりも円満な解決を望むという選好形成(=思想)」がそれぞれ相互的に規定因子となっていると理解できる(注2)。


Ⅲ 伝統的法文化とその変容

 

 さて,尾崎の「循環説」に立つとするならば,結局問いは川島の振り出しに戻り,我々は「法文化」を記述・参照していくしかない。

 伝統的な日本の法文化論としては「タテマエとホンネ」の論理が挙げられる。例えば,男女雇用機会均等法男女共同参画社会基本法が制定された後の雇用形態。ここで企業はタテマエとして男女間の格差是正アピールをするが,ホンネとしての職場上の差別は依然として残るということは挙げられよう。

 また「ウチとソトの区別」も指摘されてきた。例えば,会社の擬似家族化。ここにおいて上司と部下との関係は不明確・情緒的である。すなわち,互酬的な関係が観察される。ここで興味深いのは,上司は部下に対して常に上の地位に立つ(逆に言えば部下が常に上司の隷属状態にある)ということではない,ということである。これが義理という概念に他ならない。なんらかの行為を「義理を与えた」相手方に要求することは憚られ(要求すると第三者から「はしたない」というサンクションを受ける),相手方が「自発的に」(注3)行動するのを待つ他ない。要するに平和な関係を維持することがさしずめの目的となり,問題が非言語的・情緒的に処理されていく。ここではやはり法(要件メルクマールを持つことで形式的・明示的に示される規範)とは異なる規範(内輪の論理)が観察される。

 以上の伝統的法文化の議論から3つほどエッセンスが抽出される。第1に,我が国の人間関係は非言語的で,情緒的なものであるということ。第2に,ウチの社会の中で構成員は同じ集団に帰属する相手に対して暗黙の期待を寄せ,間接的に行動その他を働きかける。こうして,第3に,理性的な討議ではなくその場の「空気」のようなものに支配される。ここでは「自発的」になすことは非自発的になされる。これはM・ウェーバーが言うところの形式的・合理的法とは大きくかけ離れた規範形態である。規範が明示されていないことは言うまでもないが,規範(なるもの)に逸脱した際の「強制を行なうスタッフの存在」(ヴェーバー,1922=1972年)はないし,ましてや外的なサンクションが発動する見込みはない。

 現代の日本においてこのような川島がいうところの「封建的かつ家父長的な権力」構造は「個人化」により変容を遂げているという指摘がしばしば見られる。これは伝統的人間関係(地縁・血縁)の希薄化ないしは個人に対する意味の変化だったり,そもそも日本では現実的に観念できなかった公共空間が不在しているということに原因を見出すことができる。

 個人化により個々の人間の感覚が自閉する。こうして社会的紐帯が誘拐した現代社会において法文化はどうなるか。まずは法の役割が期待しされているということは言うまでもない。2000年から始まる司法制度改革はいわゆる社会秩序の「法化」に対応すべく作られたとも言える。より理論的に見ると,断絶され,価値が共有されない(ウチの論理が使えない!)個人間の関係を結ぶものとして法的コミュニケーションは期待できる。しかしこの「法化」社会は,「法化」社会であるがゆえに法の限界を示すことにもなりそうである。

 これを踏まえて,法文化論は市民が「法を使う」という事象に対して適切に応答できるかどうかは疑問が募る。例えば市民による紛争解決手段としての法使用(いわゆる法道具主義)をどのように捉えたら良いだろうか。そもそも裁判(訴訟)そのものが法システムの核心部分であることは間違い無いが,法を使う(=行動)にも「(判例も含んだ)法的基準に則って行動する」ことも入れられなくはない。結局は「法文化」論は比較のための恣意的な構築物の操作に他ならない。

 

1)言うまでもなく,初期パーソンズの意味での文化である。すなわち,「文化とは〔・・・〕個人行為者たちのパーソナリティーの内面化された構成要素となり,社会体系の制度化されたパターンをなしている,いくつかのシンボルのパターン化され,または秩序付けられた体系にほかならない」(パーソンズ 1951=1974年:326頁)

2)この循環モデルによれば,法文化が変動する決定的な規定因子を見つけることは定義上不可能である。ただ各々の規定因子を記述することしかできないということなのか。

3)「自発的」と書いたが,これはカッコ付きの自発である。すなわち,義理を与えた者が何も相手方に要求することができないことの裏返しとして,義理をもらった相手方は「どれくらいの・どの期間までに・何を」返礼をしなければいけないかに関して予測可能性が著しく低い。こうして相手方のお返しが過大になることもある。まさに互酬的である。

 


参考文献

五十嵐清『比較法ハンドブック〔第2版〕』(勁草書房,2010=2015年)

ヴェーバー,マックス・〔清水幾太郎訳〕『社会学の根本概念』(岩波文庫,1922=1972年)

尾崎一郎「紛争行動/法使用行動と法文化について」松本尚子編『法文化(歴史・比較・情報)叢書17 法を使う/紛争文化』(国際書院,2019年)231-249頁

川島武宜『所有権法の理論』(岩波書店,1949年)[『川島武宜著作集 第7巻』(岩波書店,1981年所収]

ーーー,『日本人の法意識』(岩波新書,1967年)

パーソンズ,T.〔佐藤勉訳〕『社会体系論』(青木書店,1951=1974年)

六本佳平法社会学』(有斐閣,1986年)