近代的所有権の系譜学

Ⅰ 本稿のモチベーション

 我が国の民法において,所有権とは法令の制限内において自由に物を使用,収益及び処分する権利であると規定されている(民206条)。民法学上この所有権は絶対性を有するとされている。近年この「所有権(物権)絶対の原則」の弊害として所有者不明土地問題が挙げられるが,本稿ではこの弊害を産んだ言説の中心を担う「近代的所有権」の起源を見ていく。そのためにまずは民法学・法社会学に多大な影響を与えた川島武宜の「近代的所有権」理論(Ⅱ),次に近代的所有権の分析するための方法としてのMichelle Foucaultによる系譜学(généalogie )をそれぞれ概観する(Ⅲ)。その後,近代的所有権の起源が偶然の産物であることを所有権の正当化理論を検討しながら論じた上で(Ⅳ),なぜ近代的所有権が暴力的ともいえる「威力」を持つに至ったかを考察していく(Ⅴ)。具体的には,近代的所有権(法的言説)が他の近代の言説,すなわち市民としての私有財産の不可侵(政治的言説)と交換価値としての「商品」(経済的言説),と結びつき偶然の産物から近代社会の支配装置(の一部)へと昇華したと考える。

 

Ⅱ 「近代的所有権」論(とその影響)

 まず「近代的所有権論」とはどのようなものであったのだろうか

 我が国において,近代的所有権論は東大で民法学を専攻していた川島武宜教授によって唱えられた。川島武宜は戦中に東京帝国大学法学部で行われた「民法第一部」(末弘厳太郎担当)の中で,実用法学から離れて,特殊=近代的な所有権の社会的作用を分析する特別講義を行った(川島,1949=1984:2頁参照)。そして,この特別講義を文で書いたのが『所有権法の理論』とされている。川島によると、『所有権法の理論』は我妻栄が戦前に発表した「近代法における債権の優越的地位」を「わが国の民法学史上の画期的論文」とし(同5頁),その影響を多分に含んでいることがわかる。我妻は「債権の優越的地位」論文の中で近代=資本制社会における商品の意義を考える。そして,生産者にとって商品はただ交換価値のみを有していることを指摘し,その交換価値は契約,例えば売買契約,を結ばなければ作用し得ないと説く(我妻,1953年:18-20頁)。そして所有権の絶対性を否定的に捉え,物の「社会化」に伴い問題の中心が金銭債権の効力であるとする(同319-329頁)。これに対するある種のカウンター・ムーヴメントとして川島の『所有権法の理論』を読むことは可能である。とは言うものの,両書ともにマルクス主義的色彩が強く,結論も大きな差異はないように見える(注1)。ただ視点の取り方が大きく違う。すなわち,我妻が従来の所有権の定義通り所有権を用いるのに対し,川島は「近代的所有権」を「公準」として掲げ,そこから「特殊=近代的な」所有権からはじまり近代法体系まで説明するのである。

 川島によると,所有権とは,「生産関係の基礎的な構造の一つの側面であり」,「したがって所有権の中には同時に人間に対する支配が含まれて」いるとされる(川島,1949=1984年:18頁)。つまりマルクスが言うところの「下部構造」として所有権があり,所有権が商品交換社会においては,究極的には「人間対人間の関係のすべての側面(法や道徳までも)が物質的な(いわゆる「唯物的」な)ものとして現われる」(同26頁)という下敷きが川島理論には伺える。この理論的下敷きの下で近代的所有権は「私的モメントと社会的モメントとの分離が徹底」されるとする(同25頁)。つまり近代の法体系においては近代特有の所有形態(注2)が基盤であり,近代的所有権の私的性質の法が物権法,社会的性質の法が債権法として互いに分裂していくとする(同43-44頁)。この物権法・債権法(そして人格の法=民法総則)という法の分化を裏付けているものこそが所有権の絶対性に他ならない(注3)。そして、物権的請求権が当然に認められるところから守られる観念性が近代の「経済的社会的基礎」に結びつくとする。また,近代的所有権の客体は「価値」であるとし,観念的な「価値は貨幣において量的に表現され測定される」としている(同102頁)。近代的所有権の客体は資本主義経済という経済構造と結びつく。そして「価値」は社会的に見れば「商品」であり,現実的な人間関係(=社会構造)は社会化された物=商品の交換であるとする(もちろん,「商品」の中に労働力も含まれる)。最後に,政治構造において所有者は市民としての資格に他ならないとする。ここでは所有権は「市民社会全体によって尊重され保障され,つぎに,その結果として,市民社会の政治的投影としての市民的国家によって〔・・・〕保障される」(同108-109頁)。

 以上が川島の「近代的所有権」論の骨子である。我妻論文との対比で言えば,やはり所有権の絶対性の意義を示している点で特徴があろう。しかしながら,物権(ただし,占有権は除く)が講学上持つとされている観念性(絶対性)の根拠を社会構造に求め,他方で近代社会の下部構造としている近代的な所有形態を観念性があるものとア・プリオリに「歴史的性格」であると規定している点で,十分な説明ができているかどうかは大きな疑問符がつく。

 川島理論の影響は民法学において大きいものであったことが見て取れる。例えば,1968年刊の『注釈民法⑺ 物権⑵』(有斐閣)に書かれている「所有権の性質」の性質の中に伝統的通説が挙げてきた所有権の性質の他に,川島が指摘した所有権の観念性と絶対性が記されている。そして,川島理論が主張するような,「所有権が資本主義取引における商品取引における商品流通のための法技術たるにふさわしい役割をもつ」という指摘を「基本的に正当かつ貴重な指摘」であると評価されている(川井,1968年:222-225頁)。また,法学部生が用いる物権法の標準的な基本書でも近代的所有権論は触れられている(注4)。

 このように川島武宜の「近代的所有権」論は民法を中心に一定の支持を受けてきた言説である。特に川島理論で画期的であるとされているのは,近代的所有権の観念性とそれに基づく経済(社会)構造(資本主義経済社会)・政治構造(市民社会)と法構造(物権法・債権法・人格法の分化)の各々の結びつきを論じたことである。しかし他方で,このような諸言説の結びつきが近代においてある種の「排除」がなされてきた。近代的所有権は「交換価値」を前景化しすぎており,「共同的・公共的利益の再評価」,「「排除型社会」化ないしセグリケーション,ジェントリフィケーションの進行」,「資本としての所有」や「人体や人体的利益などを,十分に取り込めない」との批判が見受けられる(尾崎,2019年:83頁)。また,「商品」としての物に「愛着」といった感情的・情緒的・不定形な要素は意識的にといって良いくらい捨象されている。にも関わらず,この事実はつい最近まで前景化されず,近代的所有権の暴力性は目を背けられてきた。そして,近代的所有権の限界を論じる際にも当然に近代的所有権が引き合いに出される。環境問題(環境権)の枠組みの中で「共同体的・環境主義的」所有権という考えがあるが,これは個人主義的排他的所有権論に反省を迫る形で論じられており(吉田,2000年:440-451頁),やはり近代的所有権の呪縛から逃れられていない(あるいは近代的所有権論を無視して論じることは研究として粗末なものになるとみなされるのかもしれない)。要するに,「近代的所有権/非近代的所有権」という思考様式の上でのみ議論されており,この点は不可視化(当然視)されており,しかしそうであるがゆえにしたたかな権力性が近代的所有権論には備わっているのである。

 これらのことを,次節に見る系譜学を通して真理として近代的所有権が流布されてきた様相を通して見ていきたい。

 


1)そもそも我妻の生涯のテーマは「資本主義の発達に伴う私法の変遷」であった(我妻 1953年:4頁)。したがってそれに影響され,特に我妻の門下生であった川島がマルクスの影響を受けていることにはなんら疑問はない(川島 1978年:90-94頁参照)。

2)川島は「特殊=近代的な所有権」を特にその観念性は「歴史的性格」に過ぎないとして,前近代のゲルマン社会の所有形態であるゲヴェーレと対比しながら論じる(川島 1949=1984年:96-112頁参照)。

3)ドイツ法制史の泰斗である村上淳一によれば,18世紀末までは所有権は単なる経済的・私法的な権利ではなく,政治的支配と一体をなし,それゆえに土地や農民といった支配客体の保護の義務と結びついた権利,すなわち「義務的な権利(Pflichtrecht)」としての性格を有していたという(村上 1979年:96頁)。つまり,例えば前近代において「ある土地を所有する」ということは,その土地を支配すること(近代法でいうところの所有権に基く「使用・収益・処分」)のみならず,土地を耕している農民に対する人格的支配(近代法でいうところの「人と人の関係」,つまり債権法)までをも意味したということである。

4)例えば,淡路剛久=鎌田薫=原田純孝=生熊長幸『民法Ⅱ 物権〔第4版補訂〕』(有斐閣,1987=2019年)152頁及び千葉恵美子=藤原正則=七戸克彦『民法2 物権〔第3版〕』(有斐閣アルマ,2002=2018年)17頁参照。


Ⅲ 近代的所有権の起源を探る意義と方法

 上述のような近代的所有権の「暴走」を考えるときに近代的所有権の起源・「本質」を探るのは大きな示唆をもつと考えられる。しかしここでの探究の意義は近代的所有権に対し善悪の判断を加えるような,目的論的な指摘ではない。むしろ,いかに近代社会の中で近代的所有権が言説として流布されたかを,無碍に「近代的所有権」論に迎合したり貶したりするのではなく,相対化の目を持ち反省していくことに尽きる。この問いに対してNietzscheの議論を受け継いだFoucaultの系譜学は有益な分析枠組みを与えてくれる。

 Foucaultによると,系譜学とは,「細かな,無数の資料にあたる」学問であり,「歴史〔学〕と対立するものと対立するものではなく」,むしろ「理念的な意味の超歴史的な展開や無限定な目的論,すなわち「起源 l’origine=Ursprung」の探究と対立する」ものであるという(Foucault, 1971:pp.1004-1005)。この点で形而下を探究する社会学とも親和性があるだろう。

 ここで着目したいのは,系譜学ないしFoucaultが「本質」という言葉をどのように位置付けているか,である。Foucaultは本質を「日付がない秘密ではなく,」「無縁であったであろう様々な形象から徐々に構築されていった」ものであるとしている(Ibid., p.1006)。真理も同様に「学者たちの情念,相互的なにくしみ,狂人的な議論,勝ちたいという欲求から出てくる」とする。これらのことから,本質,そして真理の出現はまったくの偶然であり,構築物であり,「非理性的」(注1)な理性によるものであることになる。

 しかしFoucaultの分析はそれだけにとどまらない。つまり起源と真理の関係も論ずる。「起源とは真理の場であ」り,「起源は,さまざまな事象の真理がディスクールの1つの真理へとつながる,不可避に失われてしまう結節点にあるもの」であるという(Ibid., p.1007)。つまり,起源というものを打ち出すことによって人々が言説の中での真理を構築できるということがわかるのである。そして系譜学の任務は本質や起源・由来といったものを形而上学的に,そして単純に理解するのではなく,構築された「本質」の背後にあるさまざまな事象を「それぞれに特有の散乱状態のうちに保ち」ながら記述し,真理が手掛かりにしている「起源」の偶発性・そしてその「偶発性の外在性を発見すること」になる(Ibid., p.1009)。

 近代的所有権についても,正当化根拠となる「起源」が存在する。そのうちの1つがジョン・ロックの所有権論である。次節以降,近代的所有権の偶有性とそれを助長するロックの所有権論を概観して,「真理」として近代的所有権が果たしてきた機能(Ⅴ)と他の諸言説の結びつき(Ⅳ)を考えていく。

 


1)原文では“La raison ? Mais elle est née d'une façon tout à fait «raisonnable».”となっているが,誤植であろう。

 


Ⅳ 近代的所有権の「普遍性」とその起源

 近代に至る中で,ドイツは隣国フランスの脅威に対抗するべく法制度の構築を余儀なく,そして迅速になされた。その中でローマ法を輸入し,そして精緻な法体系を組み上げた。実証主義という知のエピステーメの中で「19世紀のベルリン,しかもたった一人の法学者サヴィニー,がしかし全てを覆し,そして今日に至るまで全ての土台となってしまった」(木庭,2010年:227頁)。ローマ法学者の木庭顕にとってみれば,複雑な概念,社会構造に基礎付けられたものこそが(ローマ)法ないしその確信にある「占有原理」であるのだが,近代社会はこれを暴力的なまでに無視している。すなわち,「「近代的所有権」なるものは,ローマ法から見ると,極度に変質したモンスターであり,事実,概念というよりもイデオロギーである」(同141頁)という。

 しかしながら,このことが十分に理解されないまま,「近代的所有権」概念がそれを正当化する(あるいはしようと努める)言説と絡まり,一人歩きをしている。この言説の1つをなしているのが,ジョン・ロックの所有権概念である。ロックによれば,所有権とは人類が神に与えられた世界を「生活の最大の利益と便宜になるように利用するための」,「何人も排除する排他的な支配権」である(ロック,2007年:211-212頁)。そして,人は自分自身の身体に対する所有権を持つことから労働という手段によってものが所有物になるという(同212-213頁)。もっとも,労働を与えれば全て所有権を持つことができるかというとそうではなく,勤労を惜しまず,そして他人に危害を加えないという条件での所有に限った(同217-219頁)。この点で,ロックの所有権概念は自らの身体の所有性から出発して,労働の投下によって世界(人類の共有物)の一部を生活の最大の利益のためという内在的な制約のもとで認められるものであったと考えられる(注1)。

 ここで検討したいのは,実際にロックの所有権概念が正しいかどうかではなく,近代的所有権の言説として機能し,本来意味が確定していない所有権概念を正当化している点である。系譜学的に言えば,歴史的には外在性・偶有性によりもたらされた近代的所有権という真理の「起源」を様々な複雑性を削ぎ落とし,同一性の元に還元していると言えようか。本当はベルリンにいたたった1人の法学者の所業によってなされた「所有権の絶対性」や「物権と債権の峻別」,すなわち偶有性の産物である可能性が高い「近代的所有権」が,あたかも歴史的に,そして目的論的にに語られているわけであり,普遍的な真理として表象されているのである。近代的所有権が歴史的に連続に語られることにより,この中に形成過程であるとされる所有形態は後付け的に限定され,それ以外の所有形態を淘汰していく暴力性が顔を出す。例えば,自ら労働を投下していない,そして社会的な効用をもたないとして現在我が国で問題となっている限界集落の土地相続はこの典型例である。ロック的な所有権概念からすると,使用・収益・処分をしない、しかし所有している,このような土地を持つ意味はないと断言できる。しかし,所有そのものの意味が不明確であるという歴史的事実(注2)を見ると,ここでの暴力性はないとは言えない。例えば土地を観念的に所有することによる地縁・血縁に基づいた心の支えだったり,感情は近代的所有権概念から一切に捨象される。近代的所有権概念の暴力性・権力性はここにあると言ってよい。

 


1)ロックの所有権概念を下地に正義構想を行なったとされるノージックリバタリアニズムはロックの所有権概念から①神が人類に世界という共有物を与えたこと,②社会的効用という内在的制約を削いで所有権の絶対性を強調したことから社会通念上妥当だとされない結果に陥り,そして「ノージック的但し書き」といったものに逃げざるをえないとも言えるかもしれない。

2)これは,明らかにローマ法学(木庭顕)からの示唆である。

 


Ⅴ 近代的所有権の近代的昇華

 以上見た通り,近代的所有権の起源を辿るとそこには1人の法学者による公理にすぎないことがわかった。公理に根拠・意味を求めると新たな公理が顔を覗くことになる。こうしてどんどん無限後退していくのも公理の特徴であるかもしれない。真理は虚構の言い換えにすぎないのかもしれない。しかし,虚構であるからこそさまざまな言説と結びつく。

 川島は近代的所有権の客体を資本経済的な「価値」であるとした(川島,1949=1984年:102頁)。しかしながら,水林彪によれば,近代民法がはじめて登場したのは1804年のフランス民法典であり,近代民法は本来資本主義法ではなかったという(水林,2014年:90頁以下)。ここでの水林の議論は川島の『所有権法の理論』の問題点を指摘する形で展開されているが,近代民法の成立と資本主義の成立の間には時間的な間隔があるという指摘は示唆に富む。具体的に言うと,1804年以降近代の理念たる近代法がまず出現し,市民が契約に基づく人間関係を形成していくわけだが,ここでの契約とは「一人もしくは数人が,他の一人もしくは数人に対して,何かを与え,為し,または為さないことを義務づけられる(s’obliger)合意(convention)」であり,権利(債権)を発生させるものというよりもむしろ義務を発生させるものであったという(同97頁)。ここでは財を持つ者=ブルジョワジーたちによる,狭い市民社会が成立していたと言えよう。

 しかしながら産業革命が起き,資本主義の経済構造が発生すると,「生産手段としての所有権」として,経済発展の論理と絡み合う。労働力が所有物として見なされ,本来「持たざる者」であった労働者・女性(・子供)も市民社会に包摂される。こうして市民社会と経済社会が同一視され,その中で近代的所有権はあたかも以前からあった,普遍的なものとして認識され,本来持ちうるべき複雑性を捨象していく。そして血縁・地縁・愛情・階級・性別などを捨象した,抽象化された権利主体=市民が描き出され,その反射として強制装置の担い手である国家・そして市場が正当化される(尾崎,2019年:84頁)。つまりここでは近代的所有権が持つある種の明瞭さ・単純化が高度に複雑化していく近代社会に応答できたとも言えるし(同85頁),近代的所有権概念が経済・政治的言説を正当化したとも言える。

 また,ニクラス・ルーマンは,近代における社会(「全体社会」)では法,経済,政治,宗教,科学,美術…がそれぞれ機能的に文化したシステムとして自律的に発展していくという社会システム論を提唱する。各システムは自律的に発展するが,相互に作用するものであるともいう(ルーマン,1993=2003年:577頁)。そして,経済システムと法システムは所有権・契約に構造的な依拠をしているという(同578-580頁)。ルーマンの言い方に従えば,所有権と契約は「構造的カップリング」をしている。ルーマンの術語は難解であるが,例えば「土地を所有すること」というのは法的なコミュニケーションとしては「不動産に対する登記がなされていること(民177条)」という記号を意味し,他方で経済的なコミュニケーションとしては「収入の源泉・信用の担保」というシグナルとして意味づけられる。この見立てを是とするならば,そもそも経済的言説とは結びつくのは当然と言えるかもしれない。すなわち,排除という暴力性を伴っているのはある意味当然と見るしかないのかもしれない(注1)。

 以上,近代的所有権概念の言説と諸言説の相互的な影響を見てきた。やはりロックの言うような所有権概念は「後付け」ないしは正当化の域を出ないように思えるし,そもそもサヴィニーにとって公理であるような近代的所有権に究極的な意味はない。しかしながら,あるいは意味がないがゆえに政治的・経済的言説と結びつき,それらを助長するような真理を作り上げてきたのは歴史の示すところである。その中の暴力性を認識しながらも使わざるをえないと言う複雑さ・葛藤といったものはまさに特殊=近代的であると言えるかもしれない。

 


1)このルーマンのシニカルさがフーコールーマンの分かつところだとしばしば言われる(大澤,2019年:605頁参照)。

 


引用・参考文献

淡路剛久=鎌田薫=原田純孝=生熊長幸,1987=2019年,『民法Ⅱ 物権〔第4版補訂〕』有斐閣

大澤真幸,2019年,『社会学史』講談社現代新書

尾崎一郎,2019年,「所有権の社会的機能」法律時報1334号,日本評論社,83-87頁

川井健,1968年,「前注(§§206-264〔所有権〕・建物の区分所有等に関する法律川島武宜編『注釈民法⑺ 物権⑵』有斐閣,222-228頁

川島武宜,1978年,『ある法学者の軌跡』有斐閣

–--,1949=1984年,『新版 所有権法の理論』岩波書店

木庭顕,2010年,『ローマ法案内 現代の法律家のために』羽鳥書店

千葉恵美子=藤原正則=七戸克彦,2002=2018年,『民法2 物権〔第3版〕』有斐閣アルマ

林彪,2014年,「近現代的所有権法論の構図試論」法社会学80号,86-115頁

村上淳一,1979年,「既得権・所有権・人権」『近代法の形成』岩波全書,65-129頁

吉田邦彦,2000年〔初出,1998年〕,「環境権と所有理論の新展開」『民法解釈と揺れ動く所有論』有斐閣,422-462頁

ルーマン,ニクラス,1993=2003年,『社会の法 2』〔馬場靖雄ほか訳〕法政大学出版局

ロック,ジョン,2007年『統治二論』〔加藤節訳〕岩波書店

我妻栄,1953年〔初出=1927年〕,「近代法における債権の優越的地位」『近代法における債権の優越的地位』有斐閣,2-422頁

Foucault, Michelle, 1971, « Nietzsche, la généalogie, l’histoire », dans Dits Ecrits tome II (Gallimard, 2001), texte n°84