『職業としての学問』と大学生の特権について

 

最近のコロナの影響で大学の学位授与式・入学式・オリエンテーションが中止になったり延期になったりして,人ごとじゃなくなってきたという印象を持ちます。

特に附属図書館のオープン・エリア(喋って良いところ)では「お喋り禁止」の張り紙がなされ,そしてある程度の拘束力を持っていて,なんとも憤慨の極みであります(目的・効果基準に照らしてどうだろうか)。

また法学,とりわけ公法系の議論が出るのではと注目もしています。

法社会学的な問い,つまり日本社会における法的拘束力を持たない「宣言」の機能とそれに反射する形での法の限界,も興味深いでしょう。

 

さて。それに便乗するわけではないですが,大学生の特権というものを考えていきたいと思います。

しかし自分が考えていることをただ述べるだけでは味気がないというか,そういう感じがするので,マックス・ウェーバーの『職業としての学問』〔尾高邦雄訳〕(岩波文庫,1919=1936年)を叩き台にしていきたいと思います。

 

⒈『職業としての学問』

大学新入生の中には,マックス・ウェーバーの名前を聞いたことがあるという人も一定数いるのではないでしょうか。

彼は19世紀末から活躍する社会学者です。

プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』や『経済と社会』といった現代でも名の知られる研究業績を残した人です。

今でも彼のテキストを巡って論争は度々起きます(が「ウェーバー学」をやってなにか意味があるのかという疑問も大いに持ちます)。

 

『職業としての学問』は,もちろん題名の通り「職業(Beruf。最近は仕事とも訳されているみたいです。『仕事としての学問 仕事としての政治』 〔野口雅弘訳〕(講談社学術文庫,2018年)参照)として学問をすることの意味」を述べているですが,その中で別に大学に残りパンを食べるために学問をするつもりのない学生にも向けられる言葉があります。

 

ウェーバーは言います。

もし学問がなにかの点で役に立つとすれば,それはむしろこの世界の「意味」というようなものの存在にたいする信仰を根本から除き去ることである。(41頁)

普通「信仰」という言葉は「神への信仰」と言ったように宗教的な意味合いで用いられます。

そしてウェーバーももちろんその意味で使っています。

キリストという神がいることで秩序が成り立つ,すなわち世界を理解することができるわけです。

しかし神は近代を迎えると同時に死にます。

そしていわば人間自らによる予測可能な秩序の維持というのが近代の課題になります(ウェーバーはこれを「魔法からの世界解放 Entzauberung der Welt」(33頁)と言います)。

そして学問というものは近代において存在論的不安に陥った人々の助けにはならないというわけです。

言い換えれば,学問が幸福への道であるとか,求めていた人生の正しい答えが出るとか,そういうものではないのです。

ウェーバーにしてみればそれは予言者・煽動者・指導者の仕事であり,学問ではないのであります(僕自身は学問と政策(主義・主張)の峻別は非常に厳しいと考えています。法学部に進学すればわかります)。

ただただテキストとにらめっこして正しい解釈を探したり,現象をより合理的・明瞭に記述すること,それがさしずめ学問の性質になりそうです。

 

以上,『職業としての学問』を読みながら学問とは何かについて少しだけ述べました。

結局学問というものは,特に各学問領域が自律的に分化し(そして同じ学問領域でもマトリョーシカのようにさらに細分化される),専門化が極端に進んだ近代においては絶対に正しい生き方であったり豊かに生きる人生論を提供するものではありません(仮に大学の講義でそのようなものがあるとしたらそれはただの「気の持ちよう」に他なりません)。

 

ではせっかく受験勉強をして(人によっては浪人をしてまで)大学に入学したのに無駄足だったのかというと決してそんなことはないと思っています。

もちろん,学問の硬派さは上述の通りですが,大学そのものに対しても批判の矛先は向けられています。

その大半は大学教育と社会の乖離によるものであって,大学に進学しないという選択が自主的になされる(戦後日本の経済・文化資本的な説明では包摂できない)ケースが目立っているのも事実です。

しかしせっかく勉強しているなら大学に進学したほうがいいのではと思います。

それは以下に述べる「大学生の特権」に関わります。

 

⒉大学生の特権

ここでは3つ挙げておきましょう。

⑴研究者に気軽に話を聞きにいくことができる・⑵膨大な時間がある・⑶いろんな人に会える,この3つです。

 

⑴研究者に気軽に話を聞きにいくことができる

つい最近まで知らなかったのですが,大学の教員に質問をすることは社会人にとっては貴重なことらしいです。

せっかく大学に入って決して安いとはいえない授業料を払っているのなら,研究室をノックしてみましょう。

研究者っていうのは不思議な生き物で,その人の生き方を聞いてみるのも面白いかもしれません。

僕の経験上,どんなに下らない質問でも答えてくれる人は多いです。

そして教師として優れている研究者はその下らない質問をアカデミックな問題に仕上げてくれます。

こういう面白さは大学ならではでしょう。

 

また,まともな大学であれば研究会だったりシンポジウムが開かれています。

大体学生にも開放しているので端っこで覗いてみると面白いです。

普段の講義では壇上であんなに自信満々に鞭撻している先生が他の先生の話を聞いていたり,悩む姿を見ていると不思議な感覚を覚えます。

ちなみに僕が最初に覗いた北大の法理論研究会で,行政法の先生が法律の解釈に頭を悩まされながら報告していました。

シンポジウムであれば,現代社会のアクチュアルな問題を扱っていることがあります(例えば北大では去年の秋「同性婚をめぐる司法と法学の展開」というシンポが開かれていた)。

社会問題に対して学問的にどういう応答をしているか,ということに興味がある人は行ってみるといいでしょう。

 

⑵膨大な時間がある

学歴社会・大卒が当たり前の日本社会の現状を見ますと,やはり学問に興味のないが進学した人も多いと思います。

その人たちにとっても大学生の特権は効力を発揮するのではないかと周りを見て思います。

それは時間です(理系の方はわかりません)。

モラトリアムと呼ばれるような漠然とした自由の中に放り出されるのが大学生であります。

その時間の使い方は親に指図されなくなるのがほとんどです。

だから,本当に自由に時間を支えます。

どういう風に時間を使っても周りは干渉しません。

ひたすら勉強するもよし。

図書館の書庫でホコリ臭い本を読むのもよし(書庫は宝物庫です)。

友達と将来について語るのもよし。

バイトに打ち込むのもよし。

バイトで稼いだお金で世界を旅行するのもよし(今は少し厳しいかもしれませんが)。

サークル・部活で楽しい思い出を作るのもよし。

恋愛するのもよし。

朝から晩まで好きな人と寝るのもよし(これこそ大学生の特権ではないか)。

とにかく学費と引き換えに手に入れた膨大な時間は大学生の特権の核心にあります。

 

⑶いろんな人に会える

大学というのは本当に不思議なところです。

まず全国から人が集まります。

そこからわかるように生まれた場所も違えば物事に対する考え方も違う,そんな場所が今の大学です(だからエリート主義が没落した大学にも面白さはあるのです)。

大事なのは自分とは異なる考え方をする人に対してどのように接するかであります。

個人的に,拒絶はもったいない行為だと思います。

なぜなら自分の考え方を反省する機会を捨てるからです。

本当に考えるのは学問ではなく考え方そのものです。

それを見直す機会が大学ではあるかもしれません。

これは毒の裏返しなのです。

大学生の特権は,逆説的ですが毒をもられることにあるかもしれません。

 

最近では大学生でYouTuberや株式会社の社長をやっている人もちらほらいます(僕の友達にもいます)。

こういう人たちは程度の差こそあれ思い切りがいいです。

高校生までの人生で会うことのなかった人に会えるのは新鮮です。

また,社会人になって大学で学び直す人もいます。

僕の場合は自動車会社に勤めていた人や弁護士の人です。

この人たちの生き方もまた大学で得られるものでしょう。

 

このように大学の役割は学問そのものの提供にとどまらず,学問が提供してくれない「人生の先輩」の話や「他の人の生き方」を見聞きしながら自らを反省するところにあるのではないでしょうか。

 

僕は大学生の特権に気づくまでに2年半かかりました。

くれぐれも後悔しない大学生活を送ってください。