やはり正義構想論はよくわからない

⒈法=正義?

法と正義の関係についての著作は数多ある。そのうちの一部を紐解くと「法は正義を標榜する」(井上達夫)とされたり,「法システム内の偶有定式」(ニクラス・ルーマン)とされたりする。中には「法の自己破壊的超越物」(グンター・トイプナー)として正義は表されている。また,ローマ法学者からは正義よりも先に,法の核心,すなわち占有原理が法の営みの中で働くとされる(木庭顕)。

本来ならこれらそれぞれの議論を検討し,ノートにすべきであろうが,今回はそれは省く。

ここでは,近代において明文化され,そして現在の社会で用いられている法(規範)と正義論の関係について考えたい(注1)。

 

⒉近代における法(法システム)と正義

もちろん古代ローマにおいて法典があり,そして法というものが生まれたのであるが,近代における法とは次の2点で異なる。

第一に,近代において法は国民国家の基盤・そして国民=市民の包摂の役割を担っている。包摂の政治装置として古代ローマから法が輸入され,国民国家イデオロギー自由主義の中でローマ法とは似て非なるものとなる(注2)。この包摂に耐えるためにローマ法の枠部みを再構築したことで占有と所有権(市民的占有)が逆転する(所有権の絶対性)など,Dogmatikerによりなされる。そして「概念法学」と揶揄される途を歩む。また,理念的には,近代は諸個人と国民国家を直接に繋ぐわけであり(社会契約説),理論的にはギルドなどの中間団体が解体され,それゆえに社会団体の規範も溶けるわけである(注3)。よって,人々の規範は法典の規範のみということになる。

第二に,法に違反し,サンクションを効率的に加えるための機関として,官僚的な裁判所が作られる。官僚的であるので,当然トップダウンの構造を有する。そうなると裁判において機械的な法規の適用に留まり,正義感といったものは邪魔になる。これは官僚構造の病理によるものだ。

もちろん,現実ではすべての裁判が法規の杓子定規に留まっていない。ではこの法の社会への「応答性」はどのような原理で定式化されるのか(注4)。「応答性」と正義にはどのような関係があるのか。このような問いが生まれてくる。

一方で正義はどうだろうか。

20世紀の後半にJ・ロールズが社会契約論と接続する形で「正義論」を復権させたのは周知の通りであろう。

これはそもそもJ・ベンサムらの功利主義へのカウンターであった。しかしながらまさに正義論を復活させ,その後ロールズの立場(公正としての正義)とは異にするR・ドゥオーキン(平等主義)やR・ノージックリバタリアニズム)らが現れ,果てにはM・サンデル(コミュニタリアニズム)も登場する。各人が各人の正義構想を掲げ,互いの議論のマウントを取り合う。

これが知的営為としての正義論の様相だとすれば,法システムの内部でどのような位置を占めているのだろうか(注5)。これはなかなか深刻な問題であるように思える。というのは,(法学部の授業を聞くとわかると思うのだが,)法解釈学の旨みは実質的な価値判断(まさに正義!)を文言の解釈に落とし込み,それで紛争の終局的解決と擬制することにあるからだ。こう書くと,おそらく法解釈でも解釈者の価値判断は避けて通れないと反論が来るかもしれない。筆者もこの点については意見を異にしない。この問題は戦後の民法学(来栖三郎・川島武宜星野英一・平井宜雄など)を中心に扱われてきた。しかしながら,例えば「この法は悪法である」といって解釈をしなかったりするなど,法そのものを無視することはあり得ないであろう。要するに,法解釈学者が法解釈学者である以上,自らの理念・価値を条文の中に埋没させることで表現するに留まるわけである。

それに対して正義論は「法はなにであるべきか」という問題に取り組む。すなわち法解釈学とはレベルが異なる・言ってみればメタ・規範的な性格を持ち得る。よってここに必然的なミスマッチはあるわけだが…。

正義論が法システムに一定の働きかけはできるかもしれない。すなわち,特定の法規の善悪を提供し,法変更の投機を提供する。

しかしながら,仮に当事者が正義構想に基づく法変更(ないし例えば借地借家法における「正当事由」など,法の反影部分による裁判官の法創造による救済)を主張すると上記の「知的ゲーム」が再開してしまう。そうなるとたちまちポリティクスの段階に移行する。すなわち,理念的には対立する正義構想どうしの勝負となるわけだ(注6)。こうなると正義はやはり法的安定性と対立しうる法のトライアングルの中で蠢く)。

 

⒊問題の所在

法にとって,正義はじゃじゃ馬的な存在なのかもしれない。ある時には法の側に立ち,そしてある時には法に背く。この現象がいかにして起こるか。この問題は法社会学の問題設定にできないだろうか。

仮に法社会学的な研究とするならば,おそらくはまずは正義を何らかの直接的な規範とすることはできないのではないか。正義を道徳的規範の1つとして定義し,規範の対立の問題として見なすのではなく,正義という抽象的かつ普遍性を醸し出す概念について(法システム内で)論じていることの意味自体を考えることが有益であると思われる。

憲法(特に「9条問題」)や死刑廃止の議論では法哲学者が声を上げているところはしばしば見る。まさにルール自体の評価であろう。しかしながらそれではいわゆる賢慮prudenceとはなにが異なるのか。そして,法解釈自体に正義が意識的に排除されるわけだが,正義構想論は法解釈の基礎づけは厳しいのか。やはり正解テーゼは絵に描いた餅に過ぎないのか。

問題の所在すら掴めていない。

 

1)自然法的な法・あるいは正義といわゆる法律はドイツ語ではそれぞれRechtとGesetz,ラテン語ではjusとlexで表されている。英語ではnatural law(right)あるいはjusticeとlawであり区分はされる。これらの関係も法理論上の問題になることは言うまでもない。なお,ここでは,「法」とはGesetzやlexといった意味で用いることにする。

2)木庭によれば,例えば日本の民法にも典型契約として記されている請負契約(民632条)などはその典型例なのだろう(木庭の言い方だと,近代的所有権によるconductioとlocatioの逆転)。また,代理の判例法理である代理権授与の表示による表見代理(民109条)と代理権踰越による表見代理(民110条)の重畳適用(最判昭45年7月28日判時603号52頁)とその明文化(民109条2項)も代理の趣旨の混乱が見られるとされる(詳しくは,木庭顕『笑うケースメソッド 現代日本民法の基礎を問う』(勁草書房,2015年)参照)。

3)理念からして,近代は個人を「存在論的不安」に陥らせる潜在力を持っていたとも言えよう。この点,バウマンやヤングらの議論でデュルケムの「アノミー」概念が出てくるのは必然的帰結なのである。

4)日本においては内縁保護法理は社会の「生ける法」を参照しながら「妥当な」結果志向を生み出している典型例なのではなかろうか。また「応答性」はNonet=Selznickの概念である(“Law & Society in Transition” (Transaction,1978=2001))。

5)ここでいう法システムとは法解釈のみならず,法に関連する紛争解決(法実践)や紛争処理の機関である裁判所の営為など,より広範に社会的に「法的なもの」と認知される諸々の諸因子により作り上げられた社会構築領域を指す。定義としては,ルーマン的ではなく,六本的であろうか。六本佳平法社会学』(有斐閣,1986年)参照。

6)ドゥオーキンの社会の正義道徳に基づいた法が持つとされるインテグリティは,ハーキュリーズ裁判官がいなければ達成され得ないものなのだろうか。正解である法解釈のルーツたる正義道徳が未確知である場合にも偶然の産物が整序されてインテグリティを法は法として認識されている以上,持っていないとは言えないのではないか。