近代において何が法を法たらしめているのか(法学内部における外部的観察の試み)(1)

今月はあまり勉強に集中できなかった。なので今回は復習でもする感じでノートを書いてみる。

題材は法社会学の定期試験の問題から引っ張ってきた。院試の勉強みたいなものである。

参考文献は書くようにするが具体的なページ数は書かないので注意されたい。

 

一般的に,近代において法というものは社会統制の道具立てとしてローマから輸入されてきたものであることに異論はないだろう。もちろん法典編纂の過程で自国の慣習が結びついて議論されることはあると思うが(ゲルマニステン!)。また,日本においてはローマ法を継受したフランスやドイツ,イギリスなどからさらに継受をして法典が編纂されるわけである。つまり,日本において近代法は幾重かの輸入がなされ(その過程で「手垢に塗れて」)作られたことになる。

この状況で上記の問いが日本において提示されるのはある意味当然である。すなわち,西洋の列強の侵略への対抗・不平等条約の撤廃という目的で短期間で作られた法典と現実の生活慣習には大きなズレが原理的に内在し(注1),法学者自身の存在意義にも関わるからである。

「何が法を法たらしめているのかという問いは法哲学でもされる。むしろ,法哲学上の約半分の問題はこの問いに,直接的にせよ,間接的にせよ,関係する。これに対して以下では「実際に」近代において法を法たらしめているものを論じていく。

まずは法の思考様式を考えてみたい。法学部に入り,まず習わされるのは法律学の答案の書き方である。「まずは大前提=規範定立,そして小前提=

事案の当てはめ,最後に結論=請求・罪責の是非」というように,ある種の作法があり,それにうまく沿わない答案は良い評価はもらえない(

注2)。これが法学部生にとって最初の「洗礼」になるわけである。

また,法学の用語も例えば「悪意」という用語はかなり実生活で用いる「悪意」とは意味が異なる。前者では「事情の不知」を意味するのに対し後者では「危害を加える意図」のような意味合いで用いられ,むしろ正反対のことを意味する。他にも,同じ用語なのに異なる意味で用いられることがある。例えば,共同相続の効力として遺産が相続人の共有になるとされるが(民898条),ここでの共有は,物権法での共有(民249条以下)と同じ意味であると必ずしも理解されてはいない(注3)。

このようなことから次の二点がわかる。第一は,法的思考様式というものは我々の日常生活の思考様式とは異なることである。第二は,法の内部で整合的に,そして完結した法体系を構築するために条文の言葉の意味も通常の生活や,場合によっては他の条文とも異なる意味で用いるようにしていることである。これらは法を法たらしめていることに大きな重要性を有する。

以上の法的思考は実定法を通じてなされる。実定法とは文字で書かれている法である。この実定法も近代法体系の特徴であると考える。神がいた時代,つまり前近代では神の命令こそが秩序の源泉であり,法であった。神意裁判とはこのことである。神意裁判とは,鉄火・熱湯・くじなどを用い,正しければ神の加護により罰を受けないとされる裁判である。神意裁判において当事者は自分が裁判の結果を知ることができない。なぜならば,神の名の下で判断されるからである。つまり,「神の命令に従う」という規範はあるのだが「従っているか否か」はあらかじめ予想できないわけである。これに対して実定法があると予想可能性が働くわけである。なぜならば,法の内容が明記されているわけであるから,自分が法に従っているか否かが論理的には理解できる。この意味において,M・ウェーバーは近代(大陸)法を形式的・合理的な法とする(注4)。つまり,一義的・一般的な要件メルクマールにより,類似の事案に対し同じ判断が下される法の類型が近代法であるわけである。もちろん,現実においては条文の意味は一義的に理解されないこともある。これはH.L.A. Hartが言うように(注5),その条文の中心的命題と「開かれた構造」が存在し,将来の社会的諸要求による条文の意味の不確定性は依然として残る。しかしながら神意裁判と比べれば規範の準拠枠組みを実定法は作っていることになる。

このことから,近代において法は明記された実定法であり,これを指標にして各人は行動の計算をすることができることがわかる。これは,N・ルーマンの述語を用いれば,「複雑性」や「不確定性」を対処し,(規範的な)「予期の予期」を確実なものとするための社会システムの「体験加工の構造」として法は存在することになると言えるだろうか(注6)。

 

1)川島武宜『日本人の法意識』(岩波文庫,1967年)2−3頁。

2)現実の裁判ではこのような思考様式は取られない場合もあるようである。むしろ現代の日本の元最高裁判事がリアリズム的な判断を論ずるのは注目するべきである。千葉勝美『憲法判例と裁判官の視線 その先に見ていた世界』(有斐閣,2019年)224-225頁参照。

3)我妻栄ほか『親族法・相続法〔第4版〕』(勁草書房,2003=2020年)253−255頁参照。

4)M・ウェーバー法社会学』〔世良晃志郎訳〕(創文社,1974年)100−106頁参照。

5)H.L.A. Hart, The Concept of Law, (Oxford, 1961), p.132.

6)N・ルーマン法社会学』(岩波書店,1972=1977年)117−118頁参照。なお,コミュニケーション理論が前景化した後期ルーマンの議論では法はもはや社会の構造ではなく法システムとして,機能的サブ・システムの1つとされる(ニクラス・ルーマン『自己言及性について』〔土方透・大澤善信訳〕(ちくま学芸文庫,2012=2016年)289頁)。この視座をもってすれば「自律性は望ましい目標ではなく,宿命的必然性」ということになる(同・290頁)。

 

(以下,来月)