我妻栄「私法の方法論に関する一考察」を読む

Ⅰ 我妻のモチベーション

 法学部生ならば我妻栄という人物を一度は聞いたことがあるだろう。日本の民法学をほとんど完成させ,現在もなお「伝統的通説」として学説に影響を与えている民法学者である。戦後すぐに行われた民法家族法)の大改正を行った立法者の1人である。我妻は,戦後民法の通説の地位を(少なくとも財産法においては)独占し,また,我妻説に対する反対説のうち有力なものも根源的な問いかけを含んだものがいくつかある(注1)。このように,大きな影響を与える我妻民法学の方法論は,実は1926年に書かれた,「私法の方法論に関する一考察」である。これが書かれた背景として,末弘厳太郎の『物権法 上巻』(有斐閣1921年)が1921年に世に出されたことが考えられる。末弘は1917年にアメリカに留学したことで,そのケース・メソッドに触れ,日本において隆盛を誇っていたドイツ法解釈学を真っ向に批判した。末弘が槍玉に上げたのは,我妻の師である鳩山秀夫である。鳩山が41歳の若さで大学を去ったのはこのことが大きいだろう。さて,このような状況の中でこの論文は書かれた。すなわち,一方で鳩山流の一滴の漏れも許さない法ドグマの構築という法解釈学的理想と,他方で末弘が展開する判例・新聞による「ある法律」の探究という社会学的法学理想に板挟みになっている中で,我妻は独自の方法論を確立したのだ。これこそが戦後民法の通説の位置を占めた所以であると考えるし,現代でも参照する価値はあると考える。筆者自身我妻の戦前の論文は「近代法における債権の優越的地位」ぐらいしか読んでいなかったので,ノートのつもりで書く。なお,以下要約するものは我妻『近代法における債権の優越的地位』(有斐閣,1953年)所収のものであり,ページ数はそれのものである。

 


Ⅱ 要約

⒈我妻の悩み

上述のように,我妻の悩みは法律が要請する「抽象的論理的法律体系,即ち,総ての法律規定を純論理的に分析総合し,法律をして抽象的法則の欠陥も矛盾もなき統一体たる体系を構成せしめたること」(477頁)とそれに矛盾するような「社会事情が著しき変遷を遂げた結果」に生じる「新しい倫理観念」をどのように調和させ,「妥当な判断」を法律構成するか,というものである。これへの解決として,一方で「形式上は法規に無視せられてしかも社会の実際において行はれてゆく法則を知」ること,他方で「この生活関係に対する法規の倫理的意義を開明し批判すること」が挙げられる(479-480頁)。これは,現代でいうところの法社会学法哲学にあたると考えられる。しかしながら,法社会学によって実証された知見により「妥当な判断」が何を根拠に正当化されるのか,そして法哲学(「批判的法哲学」とする)の道を進もうとしても「いわゆる最高の理念と法律価値との純形式的理論のために困惑せしめられ」,本末転倒であるとされる(480-481頁)。この我妻の指摘は,現代でも同様であると思われる。しかるに,我妻はテーゼを自分で切り開くことになる。ここで我妻が出発点とするのは「社会における一定の生活関係を法律的に処理すること,即ち最も広い意味における裁判を以て法律の中心的機能」とすることである(483頁)。この方法論の確立の目的は,法律の本質を認識論的に定めるためでなく,「この裁判中心といふことをスタートとし,法律は結局ここにその中心的機能を有することを忘れざる一路を進むことによつて,限りなく困難な根本問題に対する自分の今後の攻究に統一を保たしめんとする」ことである(同頁)。

 


⒉我妻のテーゼと「触れる三個の問題」

我妻は第一章の冒頭に,自らのテーゼを要約する。それは,「法律殊に私法は,社会の生活関係をその担当すべき一定の範囲においてこれを法律的に処理すること,換言すれば,最も広い意味において裁判することをその中心的機能とする」というものである(484頁)。特に興味深いのは「担当すべき一定の範囲において」という条件・制約である。我妻はこれを,「人類の社会生活は勿論法律のみによつて統制されるものではないから,法律は,常に,社会の生活関係のうち,その一定の範囲を担当するに止まる」と説明する(486頁)。また,裁判を中心的機能とするといっても,立法を排斥しないし,和解・調停を排除しないで,ただ生活関係の処理を問題にしたいわけである(487-488頁)。なぜ裁判中心にするかというと,裁判を行う際に,「一面においては,現行の法規及び裁判所の判例の論理的体系に矛盾することなきやう努力すると共に,他面においては,この既存の体系の論理的帰結のみを以ては満足せず,具体的事件に対する価値判断の結果を実現せんとする,といふ二つの要求に導かれてゐる」からであるという(489頁)。

こうして,裁判を中心とし現行法の体系と,具体的事案の価値判断を中心として「妥当な判断」を探究することという方向にいくが,我妻はここに3つの問題があるとする。それは,「即ち,第一に,具体的価値判断の標準を与えるために,現代の人類社会生活において,私法は,如何なる範囲の生活関係を,如何なる形式において,如何なる理想の下に処理すべきかを,可及的に具体的に明らかにすべく〔=法哲学に近い問題〕,第二に,その規律せられる生活関係が,社会における数多のファクターの如何なる交渉によつて,如何なる変遷を辿りつつあるものなるかを明かにすべく〔=法社会学に近い問題〕,而して,第三に,この個々の事件を,この理想標準に従つて処理するに当つての判断を,現行法を基礎として法律的に構成しなければならない〔=法解釈学の問題〕のである」(491頁)。以下では我妻はそれぞれの問題を順に考察していく。

 


⒊法律の実現すべき理想の問題

まず我妻は,第一の問題,つまり「現代の人類社会生活において,私法は,如何なる範囲の生活関係を,如何なる形式において,如何なる理想の下に処理すべきか」という「法律における理想の問題」に取り組んでいく。この問題は3つに分割つすることができる。すなわち,⑴生活関係の範囲の問題,⑵私法の形式の問題,⑶私法が有する理想の問題,である。

 

⑴生活関係の範囲の問題

この問題は,法律を社会統制(social control)の技術であるとしても,その一部にすぎず,道徳や宗教など他の規範も社会統制を行なっているという事実から生じる問題である。この問題を言い換えると,「法律を一個の社会制度としてその有すべき作用(function)を中心として攻究することである」となる(497頁)。我妻はシュタムラーの法律を「外部的規律」とする論争的な議論を出してながら,法と道徳,宗教,慣行などといかなる関係に立つのかを問わねばならないとする(同頁)。また,我妻のテーゼは裁判を法律の中心的機能としているから,「現代の社会に争はれる具体的の事件につき,法律といふ社会統制が,現代人の心理と現代の制度の下に,如何なる関係に立たすべきかを考慮しなければならないのである」(498頁)。

 

⑵私法の形式の問題

前述のように,我妻のテーゼにおいて,裁判を中心的機能とすることは,必ずしも立法や調停・和解を無視するということではない。むしろ,生活関係を法律で処理する際に裁判のみならず,さまざまな代替手段があることに我妻は注目する,「我々は,社会に争はれる事件を考察し,他の社会統制の中において法律の担当すべき範囲を考へながら,その使命を完うせしめんとするとき,我々の研究は,当然この各種の裁判形式が種々の生活関係について有する特別の意義を考慮することを怠つてはならないのである」(499頁)。

 

⑶私法が有する理想の問題

この問題には法哲学倫理学(我妻の言葉ではカント的な「批判的法律哲学」)が密接に関わっていると思われるが,我妻はカントにより科学として昇華された倫理学とは距離を取る。というのは,もちろん「カントが倫理学を一個の科学として新たに基礎づけするの大業を完成し得たのも,実にその純形式的(formal)な方法によつて,倫理の法則を一般的立法の純粋な形式(die blosse Form einer allgemeinen Gesetzgebung)に求めた点に存するものなので」あるが,これにより定立された命題(例えば,「自由に意思する人間の共同生活」)が普遍的妥当性を持つとしていても,具体的な判断を迫られると「ややもすれば恣意に陥る憾みがあるやうに感ぜられる」とされる(493頁)。我妻が要求するような「指導原理」とは,「個人意思の絶対」というような,「命題の抽象的なるに拘らず,その内容において極めて具体的な内容を基準を示すもの」である(500頁,502頁第二章注(五)参照)。ゆえに,法哲学が取り上げるような「正義」や「平等」,「自由」は「倫理哲学の基礎を与へられた場合においても,──具体的指針としては,〔・・・〕何ものをも与へないのである」とされる(501頁)。「ただ私は,批判的法律哲学の立場が,その所論の強いにも拘らず,ややもすれば一般的価値の定立の論理的必要を切言するに止まつて,それ以上の従属的価値内容の開明に努めず(これをなすことは哲学の任務ではないから,法律哲学がかかることをなさざるは当然なことだといふべきかも知れないが),それを援用する者も,その一般的価値の命題に多少の潤色修正を試み,然る後,率然として具体的判断に映って能事終われりとなす者多きに不満を抱き,少くも裁判を中心とする観点にあつては,この一般的命題を定立するに当つては全然除去せられた当代における従属的な個々の価値を,各種の法律関係について考察し,それぞれの範囲において,能ふ限り具体的な標準を建てることが極めて重要なものとなることを切言したいのである」(494頁)。要するに,初期の近代では妥当していた「個人意思の絶対」という「指導原理」が,社会の変遷に伴い妥当な判断を下しうる指導原理たりえなくなったので,自由や平等といった漠然な価値に止まらず,妥当な判断を下すことができるレベルの具体的指針を攻究しなければならない,という意気込みを書いているのである。

 


⒋社会現象の法律を中心とする研究の問題

次に我妻は第二の問題,すなわち,「法律によつて処理せられる生活関係が,社会における数多のファクターの如何なる交渉によつて,如何なる変遷を辿りつつあるものなるかを,明かにすること」という問題をより広く・一般的に考え,「単に裁判によつて処理せられる個々の具体的な事件にのみ没頭することなく,進んで,この事件を一個の社会現象と見,他の社会現象との間に存する因果乃至相関の関係を研究して,その間に行はれる法則の発見に努めねばならない」とする(506頁)。このような問いは言わずもがな法社会学(実証科学?)的なモチベーションを多分に含む。このような原理的な考察がいかなる目的になるか,我妻は「〔ある事件〕に対してなす法律処理──裁判──も,一面においては,近視眼的な主観的判断たるを免れ,他面においては,架空な理想的判断たるを免れること」であるとする(同頁)。つまり,法の体系性と具体的事案に対する妥当的判断という法律に要請される(もしくは要請する)要素を克服する途(の1つ)として提示し,そして退けた法社会学の立ち位置をここにおく。ここで我妻が問題とするのは,「法律」を社会現象として研究することの可能性である。これに関して我妻は,法律の研究する立場として,「一定の時代において,事実ゲルテンするものとせられた内容,或ひは与ふべきものとせられた規範的意味を考察することができる」(510頁)とし実証研究の可能性を肯定する。この表現はややわかりにくいが,要するにマックス・ウェーバーが「法律」の語を法律学的意義と社会学的意義を有しているという指摘と同義である(510頁第三章注(二)参照,注2)。

このように,我妻は「実際に特定の現象について多くの実証的な研究をした後でなければ,その一般的な原則を定立することは出来ない」という立場をとる(512頁)。そして法社会学的研究をする際の理論的基盤が必要になるが,我妻はそこでマルクスの理論を「社会現象研究の一方法論(Methode)」として取り上げる(513頁)。マルクス理論の意義を我妻は,マルクス理論が「社会の生活関係を経済関係にまで掘り下げてゆくことによつて,法律と経済との間の重要な関係を明かにしたことは,従来,法律のイデオロギーに閉ぢこもつて,それ自身の裡に形式論理的体系を打ち建てることを以て能事終れりとしがちであった法律学者に対して,限りなき教訓を与へるものである」とする(同頁)。この考えは我妻の弟子である川島武宜にはもちろん(注3),末弘厳太郎の弟子であった平野義太郎・戒能通孝にも影響を与えたのではないだろうか。

マルクス理論を参照しながら我妻が言わんとすることは,要するに「進んで各種の財産支配の態様,各種の契約の態様といふやうな,個々の法律規則,または法律概念をとつて考察する」ことが,法律概念・関係を系統的に研究し,それらを理解するために「極めて重要なこと」であるということである(515-517頁)。

そして最後に,我妻は「法律家は,〔・・・〕法律の大原則や,ある程度まで出来上つた法則のみを取扱ふのではなく,進んで,経済関係の進展に際して生成してくる新たなる不確定な現象を考察しながら,その裡に新たなる法則の生成を認め,これをとり上げて,既成の法律系統の中に織り込んでゆくことに,多大の努力を費やさねばならぬ」とする(517頁)。この意味は,絶えず変遷する社会で出てくる現象──例えば階級闘争というような──を観察するときに,そこに現れる(あえて法社会学的に言うならば)「生ける法」を観察し,それを法ドグマに包摂することが法律学の課題であるということなのだと筆者は考えている。ただし,社会的・経済的変遷に全て対応することは不可能であるし,法律的構成により包摂するにあたり「純法律的ファクター」(518頁)により情報が濾過されていくことは我妻も承知している(この際にもやはりウェーバーを引用する)。また,法律は経済によってのみ規定されている(上部構造!)と考えず,様々な生活関係を見ることが有意義であるとし,「結局,法律を中心とする社会現象の実有的考察は,社会生活の特殊のファクターのみ〔=経済のみ〕を中心とすることなく,あらゆるファクターに渡つて法律的観点の下に考察しなければならない」とする(527頁)。経済により法律が規定されていると言う言説も,神学論争に等しいもので,我妻は法律も経済に影響を与えることを説き両者の優劣を問うことに意義を見出さない。

 


⒌法律的構成の問題

我妻は最後の問題,すなわち「社会の個々の事件を,この理想標準に従つて処理するに当つての判断を,現行法を基礎として法律的に構成すること」という法律的構成の技術問題に取り組む。我妻にとって「妥当な判断」こそが目標であったわけだから,これがなくては画竜点睛であるのだ。

これも我妻は問題を分節化し,「現行法を基礎として法律的に構成するとは,⑴如何なる意味を有するか,⑵かかる構成が何故に法律的処理として不可欠の要素であるか,⑶この要素は裁判の他の要素たる具体的妥当性と如何なる関係をもつか,⑷この構成が如何なる方法乃至技術によつてなされるか,等の問題を,順次に,考察」していく(533頁)。

 

⑴法律的構成の意味

これはもちろん,現行法の抽象的な法規を大前提として,当該事案の具体的事件を小前提とし,判断を論理的に帰結されるものとして構成することを意味する。ここで我妻はこの法律的構成が心理過程ではなく技術であることを強調する。法律的構成が意味することは,「何等かの心理的過程によつて出来上つた判断に,この三段論法の法律適用の形式を与えること」である(534頁)。また,「現行法」を「現行の総ての成文法を包含するのみならず,総ての慣習,判例,更に条理をも包含し,これ等を統一した矛盾なき一つの体系」として定義する(536頁)。つまり,法ドグマである。法ドグマの構築はその「妥当な判断」をするにあたりどの程度「確実性」を失わないかという点に関わる(538頁)。要するに,法律的構成とは,具体的な事案があたかも法ドグマに包摂されているかのように処理し,判断を下す技術ということになろう。

 


⑵(現代の裁判における)法律的構成の不可欠性

これを我妻は近代法律の形式的合理性から説明する。つまり裁判官や法律学者が「法律的構成」を当然のことして信仰している現象を法制度そのものから説明していることになる。「形式的合理性」という言葉は例によってウェーバーから取り入れてきたものである。これは,「法規の純粋に論理的意義の開明(logische Sinndeutung)──即ち,各法条の内容と関係とを論理的に明かにし,これを一般化し,抽象的規則の矛盾なき体系を作ること──によって一般的原理を捕捉するもの」であると説明される(542頁)。これを近代法の特徴とする。利益法学・自由法論が概念法学と対置され展開されるようになったとしても「なほ,現代の法律学が法律の本質に関するほとんど自明の原理として受け容れてゐるものは,殆んど総て,この形式的合理的の特殊な現はれなのである」とする(同頁)。ところで,近代で重要なのは行為の予見性・一律性である。そうであるならば,類似の事案に対して,客観的な現行法から同じように判断される法律的構成が,現代の社会から要請されていると説く(545頁)。これは,個人の自由を確保することにもつながる(同頁)。

 


⑶法律的構成と具体的妥当性の関係

両者の関係はときに対立することもある。というのは,「論理的構成を精確ならしめればならしめるだけ,一方に裁判の確実性の要求に副ひ得るであらうけれども,それだけ,他方に具体的妥当性の要求に背かねばならないことにな」るからである(549頁)。このある種の困難性に直面する我妻は,「確実性」というポイントに着目する。我妻は「確実性」を「裁判が個々の場合においてその法律を解釈適用する権力者の恣意によつて二,三にせられることなき客観性を有し,個人の自由を脅かさないものである,という保障を備へてゐること」であると定義する(550頁)。しかしその一方で,「法律を論理の形式となし,その取扱ひを純論理的意義の開明に終始せしめることは,決して確実性そのものではない」とする(551頁)。では確実性はいかに決まるのか。我妻は「当該事件の生じた時代と,内容たる法律関係とを考察することによつて,その具体的妥当なる判断に与ふべき確実性の量を較量しなければならない」とする(552頁)。筆者自身この話我妻の記述を理解できていない。確実性が相対的・数量的・確率的に用いられているのだろうけれども,それをいかに決めるかは我妻理論からは出てこないと思われる。確実性に関して,最終的に我妻は「要するに,具体的の妥当なる判断に,正に与ふべき確実性を適当に支持するところに,法律の論理的構成の至当なる存在の線は引かれることとなるのである」としている(553頁)のだが…。

 


⑷法律的構成の技術・方法

⑴~⑶のまとめとして,我妻は法律的構成の技術・方法を論じる。「第一に,現行法の論理的に矛盾なき体系を作り,その内容を明瞭ならしめて置かねばならない。而して,第二に,具体的事件の判断に対して場合に,前の体系の一定の部分を選んで,これを大前提とする構成を作らねばならない」(553-554頁)。また,論理的体系から一部を切り取るといっても,「全人格を傾けた考慮によつて出来ている具体的判断を前に置き,その小前提たる事件を決定し,この二つを論理的に結びつけ得るやうな大前提を創り出すことに努めねばならない」とする(554頁)。厳しい制約であり,不断の吟味を必要とする知的営為であろう。また,解釈の対象となる当の法ドグマも変遷する社会に伴い新しく出てくる利益・生活関係に対応すべく,なるべくフレキシブルにしておく必要がある。そのために,「総ての規定乃至概念を分析して,その一定の時代,一定の社会において与へられた具体的な内容とその合理性との間に存する関係を捕捉し,これに基づいて,新しき社会状態の下にそのウムビルデンを企てねばならない」と我妻は説く(555頁,注4)。このことは前述の「確実性」と関連してくると考えられる。この確実性を保障するためにときには小前提を「擬制」することも「おのづから肯定せられねばならないこととなるのである」とされる(556頁)。

 


⒍結語

我妻が言いたいことは法律学における論理的合理性の絶対視に対する批判への応答という側面が大きいのだろう。これは,「然り,法律における形式的合理性は,決して,従来ややもすれば誤解されたやうに,絶対なものではなく,従来の学説のこの誤解に基くドグマは,根本的の修正を受けねばならぬものである。けれども,その相対的存在意義を有する範囲において,その修正せられたる形の下においては,現代において,なほ,否定すべからざる地位を有することは,何人も否定し得ないところであらう」という記述から読み取れる(559頁,注5)。そうであるがゆえに法律は保守性を免れないとする(同頁)。

最後に我妻は自身が提起した問題の答えを出す。

法律学は,

「実現すべき理想の攻究」を伴はざる限り盲目であり,

「法律中心の実有的攻究」を伴はざる限り空虚であり,

「法律的構成」を伴はざる限り無力である。」(560頁)

 


Ⅲ 結びに変えて

以上が要約になる。我妻の「確実性」の概念など,不明なところもあるが,興味深い点はいくつかあった。第一に,ウェーバーマルクスをかなり参照していることである。大変な勉強家であることを思い知らされた。第二に,事実である生活関係を実証的に把握するという方法は,民法学者であり法社会学者である川島の方法論にやはりいささか影響を与えているのではないか,ということである。川島の『所有権法の理論』(有斐閣,1949年)は我妻の「近代法における債権の優越的地位」論文に触発されているのはよく知られているところだが,後の「科学としての法律学」から始まる一連の(リアリズム法学的な?)プロジェクトは関連しているのではないか。これは更に探る必要があると思われる。

 


1)その1つは私見では平井宜雄の民法416条に対する通説的理解への立法過程からの批判と考えている。平井宜雄『損害賠償法の理論』(東京大学出版会,1971年)参照。

2)ウェーバーは法に関する法学的考察方法と社会学的考察方法の区別に,緻密な記述を与える(M・ウェーバー〔世良晃志郎訳〕『法社会学』(創文社,1972=1974年)3頁)。「「法」・「法秩序」・「法命題」について論ずる場合には,法学的な方法と社会学的な方法との区別に特に厳密に注意しなければならない。〔・・・〕法学的な考察方法は,法規範として現れてくる一つの言語構成体には,どのような意義が,すなわちどのような規範的意味が,論理的に正当な仕方で,帰属すべきであるか,ということを問題にする。これに反して,社会学的な考察方法は,共同社会行為に参加している人たち──そのうちでもとくに,この共同社会行為に対する事実上の影響力を,社会的に重要な程度に握っている人たち──が,一定の秩序を妥当力あるものと主観的にみなし,また実際にそのように取り扱う,つまり彼ら自身の行為をこの秩序に志向させる,というチャンスが存在している場合,このことによって,ある共同体の内部で,事実上何がおこるか,ということを問題にする」(強調原著者)。

3)しばしば法社会学の発展系譜を考えたときに,戦前の末弘から戦後の川島へと継承されていくという単線的な理解はできないように思われる。その意味で,法社会学はどこから来たのかという問いを考える際にも我妻の方法論を見ることは有意義であると考える。

4)「ウムビルデン」(umbilden)は「改造」の意味である。

5)下衆の勘繰りに過ぎないが,ウェーバーの「形式的合理性」を持ち出しそこから近代の法律家の習性を説明しようとすることは,鳩山が経験したような葛藤が我妻にもあり,それを払拭するための社会科学的基礎づけをしていたのかもしれない。