グンター・トイブナー「グローバル・ブコーヴィナ──越境的法多元主義の発生に向けて──」訳(上)

「生ける法」議論の系譜を現代に辿っていくうちに,Gunther Teubner, “Globale Bukowina : Zur Emergenz eines transnationalen Rechtspluralismus” in Rechtshitorisches Journal 15(1996), S.255-290という論文があることを村上淳一「歴史的意味論の文脈におけるグローバルと法」H・P・マルチュケ=村上淳一編『グローバル化時代と法』(信山社,2006年)25−32頁を読む中で知った。自分にとってはドイツ語を読むのは初めての経験であるから,慣れないところが多々ある。論文の注は省略した。また,今回はS.263までの訳出である。

 

グローバル・ブコーヴィナ──越境的法多元主義の発生に向けて──


法発展の重心(Der Schwerpunkt der Rechtsentwicklung)は,

全ての時代と同様に,我々の時代においても,

立法にでもなく判決にでもなく,社会そのものの中にある。

──オイゲン・エールリッヒ


Ⅰ.

 ビル・クリントンとオイゲン・エールリッヒのどちらが正しいのか。両者とも,すなわち,アメリカ大統領のみならず,辺境のブコーヴィナ(Bukowina)のチェルノヴィッツ(Czernowitz)という,オーストリア帝国から離れたところで「生ける法(lebenden Rechts)」という概念を作り上げた,大方には忘却の彼方にある法学者も,世界法秩序(Weltrechtsordunung)に対する夢想的な幻想を抱いている。すなわち,ブコーヴィナの平和(Paw Bukowina)はアメリカの平和(Pax Americana)と同様,世界平和(Weltfrieden)・世界法秩序に対する見立てである。とは言うものの,エールリッヒのこの見立ては[ビル・クリントンの]新しい世界法への道筋とは異なっている。ビル・クリントンにとっての新しい世界秩序においては,国際政治は世界に新しい共通の法をもたらすべきであり,地域単位の諸システムの政治的調整を基盤としなければならないとされる。これに対して,エールリッヒの「グローバル・ブコーヴィナ」においては,世界秩序は単に政治のみならず,彼のいう「生ける法」を創り出す──政治と一定の隔たりがあり,対立さえもする──市民社会そのもの(die Zivilgesellschaft selbt)でもある。エールリッヒのこの見立てはオーストリア帝国の国家法に対しては当てはまらないものであったものの,私の意見では,彼の見立ては新興の世界法秩序にとっては正しいものであることが判明するだろう。そしてこのことは記述的観点・規範的観点の両方から言える。まず記述的観点からエールリッヒは正しい。なぜなら,軍事ー産業ー道徳複合体(der militäliche-industrielle-moraleshe Komplex) ──今日すでに見られるような──が市民的世界社会が有する多様な遠心力を統御するような状況にないからである。そして規範的観点からもエールリッヒは正しい。なぜなら,政治がローカルな次元で成立する限りいずれの場合においても民主体制の合意形成の機会(die Konsenschancen der Democratie)のために良いからである。

 歴史的に国境を越えた世界市場の法秩序であるレックス・メルカトーリア(lex mercatoria)は,今でも国家間の政治秩序を越えた「世界法」の最も成功した例として示されてきた。しかし,グローバル・ブコーヴィナは商法内に留まらない,大きな意義を有している。国家法・国際政治に対置される「相対的な自律性(relativer Autonomie)」(ギデンス)のなかで,今日世界社会の様々なセクター(unterschiedliche Sektoren)が独自の様式を有するグローバルな法秩序を追い出すようにして自発的に発展を遂げている。「国家なき世界法(Weltrecht ohne Staat)」なるものの候補としては,まずは多国籍企業内部の法秩序が挙げられる。また企業や労働組合の手による法制定(die Rechtssetzung)が私的なアクターとして根ざしている際には,雇用法もグローバル化と非公式化の混合体のようなもの(eine solche Kombination von Globalisierung und Informalität)として理解される。それから,技術的標準化(der technischen Standardsierung)と専門的自己統御(der professionellen Selbskontrolle)のセクターにおいて,オフィシャルな政治による最小限の干渉のみを伴いながら,世界規模での調整を形作ろうとする傾向がある。しかしまた,今日では,グローバルな人権論議(Menschenrechtsdiskurs)を調整する原理に単に国家的法秩序と独立しているだけではなく,国民国家の実践次元に対しても修正を施すような,独特の(sui generis)法が求められている。我々は人権に関する論議についても特別なものを見出すことができる,つまり「法システムを地域的な政治プロセスの恣意性に委任することは耐え難いものである」(ルーマン)。また,環境保護のセクターにおいては(im Bereich des Umweltschutzes),相対的に国家的制度から離れているため合法的な法のグローバル化に向かう傾向もある。そしてスポーツの世界においてまでも,レックス・スポーティヴァ・インテルナティオナーリス(lex spotiva internationalis)の出現について議論がなされている。

 このように,我々は国家法や古典的な国際法から独立して生じた,もはや初歩的なものに留まらない一連の世界法秩序の形を見てとる事ができる。これらの形に目をやりながら,私は3つのテーゼを主張したい。

⑴  グローバルな法は法多元主義理論(eine Therie des Rechtspluralisumus)と多元主義的に設計された法源論(eine entsprechend pluralitisch konzipierte Rechtsquellenlehre)によってのみ適切に解釈される。まず,植民地の利益社会的法(Recht kolonialer Gesellschaften)から,近代国民国家に内在する異なる民族・文化・信条を持つ共同社会的法形態(Rechtsformen vershiedener ethnischer, kultureller, und religiöser Gemeinschaften)に視点を切り替えることにより,ようやく最近になり法多元主義理論は成功したと言える変化を経験したのだ。今日においては再び集団の権利から対話的論証の権利に(vom Recht der Gruppen auf das Recht der Diskurse)また焦点を再調整しなければならないだろう。同様に,法学的な法源論も,何らかの国家的または国際的な制定法と独立しながら世界社会のさまざまなセクターで発展してきた,新種の「自発的な(spontane)」法創造プロセスへと注意を向けなければならないだろう。

⑵  グローバルな(国家間の,ではない!)法はこの意味において独特な法秩序(eine Rechtsordunung sui generis)であるが,それは国家的な法システムに合わせるための物差し(Maßstebän)にはならない。重要なことは,よく理解されているような,グローバルな法が国家法と比較した際に法の発展において未だに規定的な構造上の欠陥があることの証明ではない。むしろ,すでに広範囲に養成された法秩序が,伝統的な国民国家の法秩序とその規定されている性質の点で区別されるのである。これらのグローバルな法の性格により内在的な世界社会の差異化プロセス(Differenzierungsprozesse)の説明がなされる。というのは,一方ではグローバルな法が少しの政治的ないし制度的支持をグローバルなレベルでは有していないにも関わらず,他方でグローバル社会的なプロセスと経済的なプロセスを間を詰めて結合させ,その本質的な刺激を受け取るからである。

⑶  国際政治や国際法から相対的に距離を取ることは「国家なき世界法」を再ー政治化(einer Repolitisierung)から守ることを意味しないだろう。反対に,グローバルな法行動として(als globale Rechtsakte)まさに社会的・経済的な(越境的)取引を再編成しようとすれば,グローバルな法が有した非ー政治的性格を蝕むことになり,それと同時にその再ー政治化の基盤を建てることになるのである。しかしこれらのことは新しい・そして今でもほとんど知られていない形式において生じることが予測される。私は,世界社会が議会による立法のように,伝統的な政治制度(traditionalle politische Institution)を通じてではなく,まさに高度な専門家を伴った世界法がそれぞれの孤立した議論を「構造的カップリング(strukturell koppelt)」するプロセスの中で再ー政治化が生じると予測する。


Ⅱ.

ビル・クリントンにはイマヌエル・カントという尊敬すべき思想家(einen Vor-Denker)がおり,クリントンはカントの権威を当然のように引き合いに出す。カントの哲学論文である「永遠の平和のために(Zum ewigen Frieden)」は新しいアメリカの平和にとっての正統な先駆者である。カントによれば,法のグローバル化は国際政治を法典に反映した結果に過ぎない。もし全ての主権国家が国際上の遵守されるべき協定において決められた法原理に同意するのであれば,全人類にとって新しく,そして公正な法秩序が発生するという。そしてまさにアメリカの平和というアメリカによる新しい世界秩序もまたこの基盤の上に打ち立てられている。すなわち,法のグローバル化は政治のグローバル化,正確にはアメリカ合衆国のグローバルな政治──もっとも合衆国はあの「法の支配(rule of law)」に基づいていると言うのだが──,に合わせなければならないとされる。おそらくカントは新しい世界秩序を特徴づけるための,彼の論題にとって完全に適切な比喩を見つけたのであろう。「永遠の平和のために」という碑文が添えてある墓地が描かれたオランダの食堂宿の看板に。

 しかし歴史は政治哲学者イマヌエル・カントビル・クリントンが誤謬を犯していることを示す。反対に,今日ではオイゲン・エールリッヒのグローバル・ブコーヴィナが見取り図の形を取っていることがわかるだろう。今日のグローバル化はもはやユートピアではなく,日常の現実(alltägliche Wirklichkeit)なのである。カントやクリントンが予測したものとは全く異なる力学が作動しているわけである。カントにしてみれば国民国家が共和制的な憲法(eine republikanische Verfassung)を持つことと政治連合のようなものが確立することが世界平和に必要な前提条件になっている。そして他の社会的側面からの均一のグローバル化(eine einheitliche Globalisierung anderer gesellschaftlicher Aspekte)がありうるとすれば,その手本としては世界市民法(ius cosmopoliticum)としての一般的な客人の権利(ein allgemeines Gastrecht)である。しかし[今日の]新たな経験は政治指導の下での統一的な社会のグローバル化ではなく,政治から相対的に独立した市民社会の断片的な(訳注1)グローバル化プロセス(fragmentierte Globalisierungsprozesse)に他ならない。我々が今日のグローバル化の中で見ることができるものは,国際政治により徐々に形成されていく世界社会ではなく,最も矛盾を含んだ,そして完全に断片的なグローバル化の生成過程であり,社会の部分システム内で(von einzelnen Teilsystemen der Gesellschaft)異なる速さで促進されていく。このプロセスの中で政治がその主導的立ち位置を失うのみならず,他の社会の部分セクターとの対比で言えば明白に後退している。あらゆる政治の国際化,そしてあらゆる国際法の存在にも関わらず,今日における法と政治の重心は相変わらず国民国家の次元である。そう,今日の率直に言って劇的な政治のより強い領域化と局地化(stärkeren Regionalisierung und Lokalisierung der Plitik)が注意を引きつけることは明らかなのである。政治はグローバル化の道を他の社会システムにはっきりと追い越されされてしまった。これらのシステムはとっくにグローバル・ヴィレッジ(global villages,訳注2)の仲間入りを果たしている。そしてこのグローバル・ヴィレッジは他の社会システムに対して政治からの支配的要求を跳ね除けるような自律性の保護をもたらす。そしてこのことは特に法のグローバル化に当てはまる。

 もちろん,以上の論証はかのウォーラスティーンの「国際関係(Internationalen Beziehungen)」の批判と明らかに共鳴するものの,ウォーラスティーンの「世界規模経済(world wide economics)」モデルではなく,むしろそれに対立する,グローバルに断片化する議論がなされているという別の考え(der Alternative der weltweit fragmentierten Diskurse)をこの主張は採用する。今日において非ー政治的なグローバル化はもはや特殊=資本主義経済秩序的な論理の産物に留まらず,特殊=社会サブ・システムの多数のダイナミクスの影響を受けることになる。「資本はその欲望を国境に縛りつけることは決してなかった」(ウォーラスティーン)。しかしカール・マンハイムが社会の自律的セクターと名を打ったように,このグローバル化への要請の呼び声は他の「文化圏(kulturellen Provinzen)」にも鳴り響いた。グローバルなレベルで独自のシステムであるのは経済のみならず,学術・文化・技術・保健システム・社会福祉・輸送・軍事・メディア・ツアーリズムも今日ではウォーラスティーンの意味では自己産出的な「世界システム(Weltsysteme)」であり,それと同時に国民国家による国際政治と有利に競い合うわけである。さらに,一方で「国家間関係(inter-nationalen Beziehungen)」という形態における政治がまず準ーグローバル化した状態に達する──すなわち,もはや相対的に弱い越境的要素を伴った国家統一体同士のシステム間的な関係(intersystemische Beziehungen)以上の何者でもない──が,他の社会サブ・システムはすでに本当の世界社会,言い換えると様々な世界システムの断片的な多様性(eine fragmentierte Anzahl unterschiedlicher Weltsysteme)を形成し始めたのである。

 では,以上の「異なる速さで進行するグローバル化」というシナリオが今や法にとっていかなる意義を有するのだろうか。今日の世界社会を見るに,オイゲン・エールリッヒの以下の洞察は正しいと認められるように思われる。すなわち,中心で生じた政治的な法(ein zentral erzeugtes politisches Recht)は法的紛争のための実用的決定(der praktischen Entscheidung von Rechtskonflikten)であるところの「法曹法(Juristenrecht)」やブコーヴィナの「生ける法」と対照的に,全くもって周辺部分にある。法のグローバル化の意味を理解するために,法の「政治的な」理論はほとんど使い物にならないかもしれない。このことは,国家と法の統合を強調する実証主義理論や,法を政治のうちに消化させようと意気込む限りの批判理論にも当てはまる。未だに人類の闘争を国際政治の世界舞台でのみ凝視しようとすることに執着する──つまり法的なグローバル化を限定された範囲でのみ見ようとする──ことで,政治から距離をとったグローバルな法現象(die globale Rechtsphänomene)を生み出す世界社会の他のセクターが有するダイナミックなプロセスを見落とすことになる。この政治から離れた法創造にとっての決定的な基礎は以下の理解にである。すなわち,「本来憲法を経由するはずの政治システムと法システムの構造的カップリングは,世界社会の次元においてはそれに対応するものはないのである」(ルーマン)。

 政治理論が不十分であるとすれば,それではいかにして自律的な法の理論はいかになしうるか。エールリッヒの「法曹法」でグローバル化の力学を把握することができるだろうか。ウォーラスティーンの概念が内在的にグローバルなシステム差異化(die globale Systemdifferenzierung)を維持できたように,まさかノネとセルズニックの意味における「自律的法(autonomen Rechts)」のグローバル化のようなものを経験できようか。もちろん歴史的証拠となるものは乏しい。世界規模のスタッフによる,強く,独立している法制度が発展する兆候はほとんどない。納得のゆく手本が仮にあるとするならば,それは強力な国際的裁判権だろう。しかし,デン・ハーグの経験(die Erfahrungen mit Den Haag)は特別将来性を感じるものではない。比較的近年の試みであるニュルンベルグ裁判の伝統を再び取り上げる動きは結局は政治的・経済的に大失敗に終わる宿命にあるように思われる。そしてグローバルの次元での立法は,国際法の限界と政治の地域主義により,面倒な手続きとなる。国際機関が多数存在するにもかかわらず,ほとんど国際的な行政・管理機関(einer internationalen Verwaltung)に関して話題に上がらない。最も早い自律的な法のダイナミックな現象は,グローバルな観点から紛争調整に従事する,グローバルに活動している,多国籍弁護士事務所の発生(die Entstehung weltweit agierender, multinationaler Anwaltskanzleien)である。

 それゆえ,再びエールリッヒの国家法も法曹法も法のグローバル・ヴィレッジへの道を指し示さないとすれば,彼の「生ける法」は成功候補のように見える。有名な引用文を繰り返すと,「法発展の重心は,全ての時代と同様に,我々の時代においても,立法にでもなく判決にでもなく,社会そのものの中にある」(エールリッヒ)。

 もっとも,ここでエールリッヒは田舎の共同社会における習俗(Sitten),慣習(Bräuchen),そして実務(Praktiken)の法に独創的な役割を強調しているきらいがある。しかしながら,現代のグローバル化の過程の中で,彼の「生ける法」は別の,そしてある程度劇的な意義を獲得することになる。現代的「生ける法」はかつての居心地が良い共同社会ではなく,冷たく,技術化が進んだ利益社会に基づく。政治ではなく,市民社会そのものこそが様々な断片的な論議を前進させるため,法のグローバル化は諸論議の発展のいわば拡散効果(spill-over-Effekts)により達成されることになるだろう。ここで,我々のメインの命題が導かれる。すなわち,世界法は国民国家ないし国際的な制度の中心部分において(im Zentrum nationalstaatlicher oder internationaler Institutionen)ではなく,社会的周辺部分(den gesellschaftlichen Peripheren)や他の社会システムとの接触部分(den Kontaktzonen zu anderen Sozialsystemen)から発展する。自律的な社会的各部分セクターの「グローバル・ヴィレッジ」は我々の時代におけるオイゲン・エールリッヒの「生ける法」が新たに生じるところの,世界社会の新しいブコーヴィナを形作る。ここで法のグローバル化に関する適切な説明を提供できない政治的ないし制度的な法の理論に代わり,唯一の──新たな──法多元主義理論が基底に横たわることになる。

 ただし,エールリッヒによるブコーヴィナの「生ける法」との重要な相違点がある。法多元主義の新しい理論は,前述したように,植民地法の調査という視点は後退化し,今日の国家主義的な法(nationalstaatlichem Recht)と民族・文化・地域的共同社会が有する様々な法形態(verschieden Rechtsformen)との間の関係に集中するようになった。諸理論が世界規模の法多元主義に対し成長した姿を見せようとするならば,大きな転換が必要になるだろう。今日のグローバルな「生ける法」は,かつて「生ける法」がそのように受け取られていた,そして,今でも相変わらず「少数の寄せ集め(patchwork of minorities)」として想定されているような,民族的な共同社会の結合(Zusammenhalt)ではない。世界法の源泉が溢れ出るのは,異なった集団や共同社会が有する「生活世界(Lebenswelt)」においてではない。その点,法多元主義の理論は今まで使っていた諸概念を言い換えることになっただろう。法多元主義の概念は集団や共同社会から論議やコミュニケーション・ネットワーク(kommunikative Netzwerke)へと切り変わらなければならない。世界法の社会的源泉は国際的な個人関係ネットワークにおいて見出されるのではなく,グローバルであるが厳密なセクターのアイデンティティーを創り出す,専門性を有し,形式的に組織立った機能ネットワークの原-権利=法(Proto-Recht)において見出される。この新しい世界法は伝統の蓄積(Traditionsvorräten)からではなく,経済・文化・学術・科学技術の様式で,専門性を有し,しばしば形式的に組織立ち,そして比較的狭義に定義されたグローバルなネットワークの絶え間ない自己再産出(Selbtreproduktion)から発展する。

 我々は世界法が本質的な観点からよく知られた国民国家の法と異なることを[世界法の特徴に関する議論の]出発とすることができる。

 ⑴内的差異化(Binnendifferenzierung)

 世界法はその内的境界(seine Binnengerenzen)を,カントが見たような,同時にそして徐々に連邦的要素の発展(Entwicklung föderaler Elemente)を保持する国民国家の領土的な基盤から定義づけはしない。むしろ,世界法は内的に「不可視の大学(unsichtbaren Kollegien)」・「不可視の市場及びその支店(unsichtbaren Märkte und Geschäftszweige)」・「不可視の専門的共同社会(unsichtbaren professionelle Gemeinschften)」に分化し,それらは領土の境界を超えて伸びるにもかかわらず自主的な法的形態の発達(die Ausbildung eigenständiger rechtlicher Formen)を急かす。新しい紛争の法(Ein neues Konfliktrecht)は国家間の代わりにシステム間から由来して発達する。

 ⑵法源

 グローバル化の流れの中で,一般的な立法機関はその意義を失うだろう。世界法は高度に専門化・技術化した方法で持続的なグローバル化のプロセスを伴いながら,法の自己組織的な(selbtorganisierten)「構造的カップリング」プロセスの中で生じる。

 ⑶独立性

 少なくとも若干の国民国家にの法において制度的な孤立は相対的に高度な程度で発展してきたのに対し,現代のグローバルな次元における法秩序の上では,法は拡散的でありながらもその時々の専門化した社会領域(spezialisierten gesellschaftlichen Gebiet)に密着して依存している。同時に「堕落(Korruption)」のようなものの副作用を伴いながら。その副作用のようなものとして,外的ー利益(Außeninteressen)に対抗する強度な依存性と法治国家による保障の相対的な脆弱性が挙げられる。いうまでもなく,この副次作用は法の再編成に対する強い政治的な必要(ein starkes  politisches Bedürfnis nach Rechtsformen)を創出する。

 ⑷法の単一体(Einheit des Rechts)

 これまでの国家建設にとって法の単一体は主要な政治的財産の1つであり,国家的アイデンティティーの象徴であり,そして同時に(ほとんど)普遍的な正義の象徴であった。しかし,グローバルな法の単一体はより早く法文化にとって(für die Rechtskultur)危険な存在となるかもしれないだろう。法の進化のための中心的な課題はグローバルな単一体的な法のもとで法源の十分な変種性(ausreichende Varietät von Rechtsquellen)を確保するのか,というものである。それでも結局は例えば地域的な次元で法の多様性を調整するような意識的な政治的試みを期待することはできるだろうが。

 


訳注

1)Fragmentierungを村上淳一は「分立化」と訳している(グンター・トイブナー〔村上淳一訳〕「グローバル化時代における法の役割変化」H・P・マルチュケ=村上淳一編『グローバル化時代と法』(信山社,2006年)6頁)。「分立化」と訳す含意も分かるが,ここは正確に辞書通り訳出した。

2)戒能通弘はglobal villageを「グローバルの村」と訳している(戒能通弘「G.トイプナーの「国家なきグローバル法 (global law without a state)」の概念について」同志社法学54巻1号69頁)。