グンター・トイブナー「グローバル・ブコーヴィナ──越境的法多元主義の発生に向けて──」訳(中)

グンター・トイブナー「グローバル・ブコーヴィナ──越境的法多元主義の発生に向けて──」訳(上) - pompombackerの徒然

 

前回に引き続き,Gunther Teubner, “Globale Bukowina : Zur Emergenz eines transnationalen Rechtspluralismus” in Rechtshitorisches Journal 15(1996), S.255-290の和訳を行っていく。今回はS.264-273の訳出である。

 

Ⅲ.

 現在文字通りの宗教戦争(ein regelrechter  Glaubenskrieg)が国際経済法の領域において展開されている。国際経済法学者はレックス・メルカトーリアの独立を問うために三十年戦争(einen Dreißigjährigen Krieg)を戦い続けているが,ミュンスター(Münster)とオスナブリュック(Osnabrück)をお目にかかることはないだろう(訳注3)。レックス・メルカトーリアは特殊=実定的な法秩序なのだろうか。それとも,レックス・メルカトーリアは,ただ国民国家の決定を通してのみ法に変換されうるところの,社会規範の全体像(ein Ensemble sozialer Normen)なのであろうか。

 もっとも,これは代理戦争に過ぎない。上述したように,この対立は世界貿易そのものの法にとどまらず,オフィシャルな国際政治に対して相対的な完結性を持つ,世界法の他の領域──国際企業の社内規則(das Binnenrecht)や雇用法,環境法,人権,そして専門機関,に関係するのである。レックス・メルカトーリアは世界法の新しく,そして国家=独立的な(staatsunabhängigen)セクターとしての模範的なケースを表す。最終的に中世の「商い人の法(merchant law)」まで遡る長い歴史の中で,レックス・メルカトーリアは自律的で,非-国家的な法形成物(Rechtsgebilde)としての豊穣な経験の蓄積を生み出してきた。他のグローバルな法形成物はレックス・メルカトーリアから何を学ぶことができるだろうか。

 レックス・メルカトーリアに関する議論は同時にその実務的な法決定がすぐさま法理論の方針決定に依存するという点で珍しいケースでもある。ここでの活用される理論構造がどんなに脆弱な基盤(schwächliche Konstitution)を有しているかをみるのはなおさら驚くべきことである。全体の理論は実務家が学生時代を思い出すであろうほどに時代遅れの法理論モデルを利用している。現代の法理論を鍵概念と対置させるとき,このことからレックス・メルカトーリアや他の国家を超えた[法]形式に対する新しい認識が生じることを期待できるのだろうか。

 我々は実務理論からの提供(die Angebote der Praktikertheoren )を次々と想起することができるし,そして一方では新しいレックス・メルカトーリアを新興のグローバルな法秩序であると評価する──主にフランスの──法学者もいる。彼らによると,この実定法(dieses positive Recht)はその源をグローバルな商業実務,統一的な通達,標準となる契約,グローバルな経済団体が有する行動準則の活動性,そして[ハーグ裁判所のような]国際的な仲裁裁判所に有するという。そして,この実定法はなんらかの国家主権(irgendeinem netionalen Souverän)と独立であると彼らは主張する。

 もちろん,このレックス・メルカトーリアの支持者(Fürsprecher)はそれに対立する者が用いる概念の不十分さに対してのみ照準を合わせたために観念的な欠乏を伴う,理論的な論証を生成する。第一陣は,慣習法の復活(der Wiederbelebung des Gewohnheitsrechts)を試みた。しかし何が「慣習の長さ(consuetudo lunga)」を実証するためのもの指しをもつような規準(die Kriterien)となるのだろうか。実定的な近代法の基本枠組みの下で慣習法に正統性(die Legitimität)を証明するような全く辛抱強い試みを提供しないことはいうまでもないが,世界法の次元での「法的確信(opinio juris)」が持つ適切な概念を提供することもない。第二の路線は,もちろん観念的な水準に止まることはなしに,20世紀初頭のイタリアおよびフランス由来の制度主義(den Institutionalismus)にあやかろうとするものである。この路線は,ぼんやりと中世の商い人の法を想起してしまうが,グローバルに活動する経済関係者の「会社法(droit corporatif)」を要請する。この制度主義論者の見立ては密接に相互に組み合わさる商業の世界社会──ソキエタス・メルカトールム(eine societas mercatorum)──をほとんど形式的な組織と把握する。つまりロータリークラブと比較する者もいれば,古い商人ギルドと比較する者もいるし,その連帯感情または内部の団体法を,ブラックリストへの記載だったり会員が構成する委員会のような規律コード(Disziplinarcode)や団体サンクション(Verbandssanktion)と語ったりするわけである。今日における世界市場の競争力学という観点から,このようなグローバルな大規模のコーポラティズム(ein derartiger Korporatismus globalen Ausmaßes)は控えめに言ってもほとんど時代遅れに思われる。第三の路線は最終的には,国家法ないしは国際法の基盤なしに自己統御的な契約(selbtregulierengen Verträgen)に基づかなければならない「法なき契約(contrat sans loi)」という,危険を孕むような構造を思いつくに至った。この構造は彼らが伝統的な法源とつなげようとする限り,いずれにしても失敗する運命にある。というのは,この考えによると,国家的法秩序が非-国家的なグローバルな法を選択することを契約の自由(Vertragsfreiheit)として確立させねばならないからである。

 [レックス・メルカトリーアを法として認めることに]反対の立場を取るのは,主に英米の論者たちである。彼らはレックスメルカトーリアを「憶測に基づくソルボンヌ教授らによる幻影(Phantom spekulativer Sorbonne-Professoren)」として激しく非難するために,国家主権(die Souveränität Nationalstaaten)を引き合いに出す。彼らの主張の論拠は歴史的に,そして比較法的に十分制限された,法=国家の必然的な単一体のイメージ(Vorstellung)を原理的に基盤にしている。いわゆる「非-国家的(a-nationales)」法は考えられない(!)とされる。彼らが言うには,世界のいずれの法現象も,必然的に国家法秩序に根付いていなければならず,少なくとも国家法との最小限の結びつきを示さなければならないのである。レックス・メルカトーリアは単一的な強制力(einheitlicher Zwangsgewalt)を伴う完結した領土を持っていないため,決して特殊=法秩序になることはないされる。彼らによると,商慣習は自らによってはこの場合の[すなわち国家法秩序に根付いていない場合の]法創造の担い手になりえず,ただ国民国家の形式的な作為を通してのみ法に変換されうるという。標準化された契約にも同じことが言える。つまり,国家法秩序の政治的統制の下に契約も置かれなければならないとされる。確かに私的な結合(Private Verbände)は準-法(Quasi-Recht)を創る余地があるが,これらの規則は法的な義務を所有していないわけであるとされる。最終的に,国際仲裁裁判所的なもの(die internationale Schiedsgerichtsbarkeit)は前例作用(Präzedenzwirkung)を伴った特殊=法を建てることはできないのであるという。この点に関して,常に国家裁判所の呼びかけを通じた国際仲裁裁判所の判決と国民国家内部の認可状-手続(Exequatur-Prozeduren)については疑問視することができよう。従来の国際私法の学説はいずれの国際法的経済コンフリクト(jeden internationalrechtlichen Wirtschaftskonflikt)を適切に捉えていない状況であったという。もし法的なグローバル化が本当に必要であるとするならば,国際的な契約や慣習は国際法の権威の下で唯一の正統な源を提供することになるだろう。

 [国家=法と単一的に捉える]立場の硬直化は我々が,法実務,法学説,そして法理論にしっかりと根付いているタブーが我々の近くにあることを示している。レックス・メルカトーリアの批判に持ち出される禍いに満ちた口調がどれほどそのタブーが根深いかを物語る。

 「予測性と確実性を計るいかなる物差しをも否定し,当事者間に対して国際商業の契約を,その仲裁人に対してどの法体系も認めず,どの裁判所も行使し得ない力を授けるという,より危険で,より望ましいことではなく,そしてより事実の裏付けのない(ill-founded)考えは想像し難いのである」(マン)。

 これらのことは,相変わらず国民国家の理想像に観念的に支配されているある法の世界(einer Rechtswelt)の中から放り出されたエールリッヒのグローバルなブコーヴィナが持つ抵抗がどれほど莫大であるかを予感させられる。そして,実際にレックス・メルカトーリアは国家=法の単一体のタブーを同時に2つもたらした。第一のタブーの破壊(Tabubruch)とは,国家による権威付けや統制なしに,私法秩序(private Verfüngen)(契約や合併(Zusammenschlüsse))のみで有効な法を生み出すことができる,とされることにある。サヴィニー以来,契約は法源としての名誉的地位を拒まれてきた。契約は法発展の現象として法社会学の領分(der Domäne der Rechtssoziologie)に委ねられたのである。というのは,レックス・メルカトーリアが法的に弱い契約を表し,この意味においてレックス・イレギティーマ(lex illegitima)であるからである。しかし,それでも第二のタブーの破壊がある。それはレックス・メルカトーリアが国民国家に対抗して,さらには国際関係に対抗してまでも[自らの法としての]妥当性を要請していることである。国家の権威,制裁力,政治的統御,そして民主主義手続きの正統性を欠いたまま,我々は越境的な次元において「自発的に」有効な法を形成させることができるのか。グローバルな次元における根本規範(die Grundnorm)とは何か。グローバルな「承認のルール(rule of recognition)」とは何か。


訳注

3)三十年戦争の講和会議はウェストファリアのミュンスターオスナブリュックの2つの都市でなされた。ここでトイブナーはレックス・メルカトーリアの地位に関する終わりなき,神すらも知らない神学論争がなされていると指摘していると考えられる。


Ⅳ.

 我々はレックス・メルカトリーアや他の国家と対置するグローバルな法の形式を伴った法に関する現在の社会理論の議論を避けられようか。法理論は自己理解的にレックス・メルカトーリアの法実務と法と非-法に関するレックス・メルカトーリアの定義を結びつけることはできない。とはいうものの,今まで誰がこのことを言い張ってきたのか。そしてもちろん,様々な法理論はそのために法の概念に対して独自の定義を持ち込み,煩わせる。しかし,法の明白な自己記述(die explizit Selbstbeschreiben des Recht)を出発点として位置付け,同時に法実践(Rechtspraxis)そのものの定義づけを結びつけようとする法理論の変わり種も存在する。その理論は法を,自律的に自身の境界を定める,ある自己組織プロセス(einen selbst organisierenden Prozeß)として観察する。そして,どのように法制御(Rechtsopertionen)が法制御として世界を観察しているかを観察する。このような理論は,堅固に,何が法の内部にあり何が法の内部にないか,などと「分析的(analytisch)」に書かれているものではない。その代わりに,この理論はセカンド・オーダーの観察(Beobachtung zweiter Ordnung)として働くのである。「システムの観察(Observing systems)」──このような法理論は言葉通りに二重の意味に関与する。つまり法は観察の客体(Objekt)である一方で,観察の主体(Subjekt)でもあるのだ。この理論は,法実践がいかに世界を,そして自らを観察しているのかを観察する。法実践はこの方式の下でその特殊な観察が伝達されることで,対抗措置を何か学習することができるのであろう。そして妥当性規準(Gültigkeitskriterien)を新たに規定することもできるかもしれない。

 このような理論は,レックス・メルカトーリアの存在は形式的で,国家により生じる法的行為(Rechtsakten)に依存するという,実証的な見方を即座に退けたりはしない。法の「グローバルな広がり(global reach)」という問題がもはや教義的な定義(dogmatischer Definition)の問題ではなく,経験的で(empirische),変化を否定しない問題として立つという条件において,宗教戦争は平和な終わりを迎えることができるかもしれない。我々の重要な実験(experimentum crucis)は以下のものになるだろう。[国家の]代わりにどこで実際に具体的な規範生成(die konkrete Normproduktion)が発見されるか。国内政治や国際関係の中なのか。国家ないし国際的な裁判所からか。もしくは,非国家的でグローバルな文脈の中での経済や他の社会プロセスの中なのか。法の経験[を観察すること]で以下の仮説が可能となる。すなわち,グローバルな経済法は3つのすべての次元(訳注4)において発展する。ただしこの仮説は,政治的,法的,そして社会的なプロセスを通じた法生成(Rechtsproduktion)を同等のものとして承認する,規範生成の法多元主義を前提としている。

 しかし同時に,さらに様々な社会諸システムの断片的なグローバル化に目を転じてみると,このような理論は規範生成の様々な類型にとても異なる重きを与えなければならないことが明らかとなる。ある法多元理論はグローバルな経済法を法の自己産出として最も高度に非対称的なプロセスの1つであると把握するだろう。グローバルな経済法は発育不良の中心(unterentwickeltem Zentrum)を伴った法のある形態であるが,同時に高度に発達した周辺(hoch entwickelter Peripherie)でもある。より正確には,「周辺」から「中心」が創り出され,両者は依存状態に止まる法形態であるのだ。これに従って,レックス・メルカトーリアは,グローバルな経済企業及び経済取引を伴った直接の「構造的カップリング」における法システムの周辺を操作する,グローバルな経済法のその部分を表すといえる。そして法の「縁で」,経済ないし社会プロセスとの接点(den Schnittstellen)で創り出されるため,「準-法的(para-legale)」な法秩序を表す。

 このように理解することで,我々はグローバルな経済法における様々な現象を──伝統的な実証主義理論に沿って──明確な国家的・国際的な基盤が有しているものであると同定することもできるかもしれない。手本としては,国際協定ないし国家制度・裁判の国家法秩序をグローバルな要求に順応させるような作為を通してなされる経済法の統一と調和(die Vereinheitlichtung und Harmonisierung)が挙げられよう。しかし,非-政治的であり非-国家的な基層の上にある多元的な法形成のより難しい実例であるところのレックス・メルカトーリアはどのような状態なのであるのか。

 我々がここで観察することは,以下のことである。すなわち,グローバルな規模で,法/不法のバイナリー・コードを利用すること(Benutzung der binären Codes Recht/Unrecht)を通して自らの境界を閉鎖し,グローバルな(国家的な,ではない)妥当性という象徴の手続化(Prozessieren eines Symbols)を通じて自己を再生産するような,自己により自己で再産出する法の論議(ein sich selbst reproduzierender Rechtsdiskurs)である。第一の規準──バイナリー・コード──により,グローバルな法を経済などの他の社会プロセスと区別される。第二の規準──グローバルな妥当性──により,グローバルな法を国家的・国際的な法現象から区切られる。すでに言及したように,両規準はセカンド・オーダーの観察のための道具である。それでもって,法は国家法秩序とグローバルな社会システムという自らの環境において特殊=法的な観察を観察するのである。

 我々はこの定義を踏まえて社会学における「言語論的転回(linguistic turn)」に気を配り,同時に「コンテクストにおける法(Recht im Kontext)」をそれに適応する。それに対応して,「規範」や「制裁」,そして「社会統制(soziale Kontrolle)」といった古典的法社会学にとっては重要な概念を背後に押しやる。その代わりに,「言語行為(Sprechakt)」,「言表(énoncé)」,「コード」,「文法(Grammatik)」,「差異の変換(Transformation von Differenzen)」,そして「パラドクス(Paradoxien)」が現在論争的で重要な概念となる。それらは伝統的な法社会学にカテゴリーを与えることができるときに,レックス・メルカトーリアとグローバルな法多元主義のより深い理解を約束してくれる。

 「制裁」は,法の定義,法空間と社会空間の定義づけ,そして全世界と国家[の区別]にとっての中心概念としての適切な役割を喪失する。もちろんこの伝統的な観念はかつては重要であった。つまり,オースティンにおける法理論(制裁を背後にした命令(commands backed by sanctions)),マックス・ウェーバーにおける法の観念(ある専門の法の幹部を通しての管理(Verwaltung durch einen professionalisierten Rechtsstab)),エールリッヒにおける法的な規範と非-法的な規範の区別,そしてガイガーにおける法理論的行動主義(代替的な法遵守/制裁)では制裁は重要であった。

 しかし実際の議論においては,制裁はその規範化の象徴的な援助という役割(der Rolle einer symbolischen Unterstützung der Normierung)において重要視されていたものであった。法的妥当性が象徴的な現実性を持つか否かはもはやサンクションにより判断されない。これに加えて,レックス・メルカトーリアの議論においては,[レックス・メルカトーリアという]法の類型は独自の法的制裁を知らず,国家の裁判所に依存しているという事実が,レックス・メルカトーリアの独自のグローバルな役割を否定する論拠として利用されている。しかし,この論拠は制裁の意義をはるかに過大評価している。重要的なことは,いかに具体的な法的論議が妥当性の要求をコミュニケーションするか,である。経済論議と同様に,専門的な法的論議が世界規模の妥当性を要求するときに,ローカルないしは地域からであれ,国家制度からであれ,どこから制裁を通した妥当性の要求を満たす象徴的援助が由来するかということは取るに足らないことなのである。

 ほとんど同一の論理で,「規範」もかつては法の重要要素として占領していたその戦略的な立ち位置を失ってしまう。法規則の代わりに今はコミュニケーションの出来事と法的行為である言表が,「構造」から「プロセス」への変化の過程の中で特殊な法秩序の要素となっている。長く続く議論によると,法規範から社会的に決定的な規準を探し出すことは望み薄であることがわかった。決定的な転換は準則の内在的な性格ではなく,準則を様々な論議のコンテクストの中への構築的な導入(konstitutiven Einführung)することの中に見出すべきである。準則がコミュニケーション行為の中で法/不法のバイナリー・コードに関連づけられたり,法構造の微視的な変化(Mikrovariationen der Rechtsstruktur)を引き起こすやいなや,準則はそこから法準則となる。

 すでに述べたように,レックス・メルカトーリアの議論において準則の相対的な不確定性(der relativen Unbestimmtheit)がレックス・メルカトーリアの独立的な立ち位置を否定する論拠として用いられていた。しかし,準則の確定性は誤解を生む物差しである。重要なのはまとめあげられた準則作用(eines ausgearbeiteten Regelwerks)が存在することではなく,──むしろ法的行為と法構造の相互的な構築化(Konstituierung)の自己組織的なプロセスが重要なのである。

 「社会統制」という観念も同様に不十分な手段であり,特殊=法的論議の要素として同定されると言い張る者もいる。今日の法多元主義は社会統制を通して特殊=法的なもの(Rechtliche)の代わりをする傾向がある。この見解によれば,レックス・メルカトーリアは社会統制の形態として,世界規模の商慣習・実務も取引範疇(Transaktionsmuster)も多国籍企業の組織のルーティーンも含んでいることになる。さらに純粋な経済的需要(rein ökonomische Bdürfnisse)と単なる国債市場の権力執行(Machtausübung auf internationalen Märkten)を含めるとなると,さらに広きに渡ることになる。しかし法多元主義が社会統制に資するもの全てを含めるとなれば,包括的な多元主義という性質を備えて[社会統制が]いかなる社会的強制と同一になってしまうだろう。

 しかし,なぜ法多元主義は単に社会統制機能について定義するのみで,「私的正義(private justice)」を持ち出す理論のように,紛争解決に関しては定義しないのか。「私的ガバナンス(private governance)」理論が強調するような,「振る舞いの調整(Verhaltenskoordinierung)」や「権力の蓄積(Machtakkumulation)」ないしは「私的制御(private Regulierung)」はなぜ法多元主義の定義に協力されてはならないのか。そしてなぜ社会生活に影響を与え,そしてともに含まれるところの強制執行権力のミクロなメカニズムによる「規律と処罰(Disziplin und Strafe)」は規準になり得ないのか。このそれぞれの境界づけ規準は法多元主義の研究領域においてグローバルな市場と多国籍企業における様々な社会メカニズムを持ち込むおそれがある。このような機能分析はレックス・メルカトーリア内部での法的なものと非ー法的なものとの区別に対して適切ではないのである。

 しかし「言語論的転回」を起こすとすれば,観察の中心を構造からプロセスへ,規範から行為へ,そして単一体から差異へ変換するのみに留まることはなく,──特殊=法の同定にとって最も大きな意義を伴いながら──機能からコードへ変換することにもなる。この観察の変化は法多元主義の動態的な性格を強調するのみならず,法的なものを社会行為の他の類型から区別する。それから,法多元主義はもはや決められたある社会領域における競合する社会規範の束(Gruppe konfligierender sozialer Normen)としてではなく,法/不法のバイナリー・コードのもとで社会的行為を観察する様々なコミュニケーション・プロセスの並存(Nebeneinander verschiedener kommunikativer Prozesse)として定義された。経済的な合理的行為の要求は同様に政治的な論理の規範や道徳規範,取引範疇,そして組織のルーティーンのような単なる慣習などにとっては不可能なものになることであろう。しかし法/不法の区別の指令(der distinction directice)の支援を伴ったこのような非-法的な現象が観察され,それが──黙示的にせよ明示的にせよ──法のコードに基づいて判断されるやいなや,それは法的現象として,──そして公式の国家法から世界市場の非公式な法に至るまでの法多元主義のもとで構築されるのである。

 誤解を一掃するために付け加えておくと,直ちに法/不法のバイナリー・コードが国家法と同一視されるべきではない。この視点はその上,「法中心主義(legal centralism)」とは関係ない。というのは,この視点は国民国家国際連合,もしくは国際制度であれ,それらにより階層的な優越性(hierarchische Überordnung)を類型的に要求する立場を後方へ追い出すからである。[ヒエラルヒーに代わり]むしろ,多様な法的論議のヘテラルヒー(einer Heterarchie)から出発し,その法的論議は本当の法的な性質を社会学ないし法理論のみならず,法ドグマーティク(der Rechtsdogmatik)からも承認されて然るべきである。

 グローバルな経済法はそれゆえに,国家法,国際法的規範,さらに「私的正義」の準則ないしは「私的ガバナンス」の指示という形をとって,グローバルな社会生活における行為と構造の相互構築のダイナミックなプロセスの役割を果たす多くの断片的な法的論議に取り込まれるだろう。そして断片的な法的論議が定めるものは,法的論議の性質が局所的であれ,国家的であれ,そしてグローバルであれ,国民国家の法ではなく,妥当性の要求の象徴的な具現化である。法多元主義の様々なシステムは連続的な規範的予期を生み出すが,同時に法/不法の[二値的な]コードに乗らないただの社会慣習や道徳規範を閉め出す。さらに,それらの様々なシステムは様々な機能に役立つかもしれない。社会統制,紛争制御,予期の安定化(Stabilisierung von Erwartungen),振る舞いの調整,そして物理的ないし精神的な規律といったように。局所的であれ,グローバルであれ,法多元主義において「特殊=法的なもの」の本質をなすものは,構造でも機能でもなく,バイナリー・コードに基づく二次的な観察なのである。


訳注

4)ここの「3つの全ての次元」について,トイブナーは明示していないが,おそらくルーマンの法の社会次元,内容次元,時間次元の3つであろう。