法(学)のわかりにくさと法社会学

0 経緯

 以下に記す小論文は,2023年度Sセメスター「法学以外を専門とする学生のための法学入門」のレポートである(注1)。この小論文の公表を快諾してくださった授業担当教員の白石忠志教授に感謝の意を述べたい。

 この小論文をブログに公表しようと思ったのは,この授業の目的と自分の問題関心が共鳴したのではないかと思ったからである。まず授業の目的について触れておくと,この授業では法学的な思考枠組みのどこが面白いのか,あるいはわかりにくいのか,について検討することが目的である。このうち,特に法(学)のわかりにくさを自分は常に抱き,そしてそのために基礎法学分野の1つである法社会学を専攻している。ここに,この授業と自分の問題関心が重なったのである。

 この小論文では,まず自分がいささか直感的に考えている法(学)のわかりにくさについて具体的に述べ(1),それが法社会学の研究といかなる形で結びついているのかを述べる(2)。何らかの結論が出るわけではないが,上述のように自らの問題関心を確認できるような気がする,という直感に駆られて,書いていくことにしよう。

 

1 法(学)のわかりにくさ

 非法学部の学生にとって,法はどこでわかりにくいと感じられるのだろうか。その問いに答えるべく,アンケート調査やインタビュー調査をしたりするなど,経験的に確かめたくなってしまう。ただここではリサーチ・デザインを明確にする余裕はなく,仮説として提示してみたい。それは,「法は堅苦しい」とかいうような言明で表現される,法は硬いという感覚である。確かに,法の素人からすれば,六法やら判例やら弁護士やらといった存在はどこか遠く,それでいて堅苦しい印象を持つだろう。また,実際の条文を読んでもやはり日常の文章──例えばブログのような──とは何か質的に違うような印象を受けるのではないだろうか。少なくとも,自分が法学部に入る前はそのような印象を抱いていた。「法は硬い」。

 しかしこのことはあくまで「法の素人からすれば」という話の仮説である。現在自分が──あくまでも「法の素人」でいようとし続けているのであるがそれにしても──抱いている印象は,法は何とも「柔らかい」存在なのではないか,ということである。これは例えば次のような話である(注2)。競争法の世界では,いわゆるカルテルは違反行為になるところ,具体的には「他の事業者と共同」することが不当な取引制限の要件の1つであるとされる(独禁法2条6項)。しかし「他の事業者と共同」とは具体的にどのような意味を指すのか。そこで必要になってくるのが解釈という作業であるが,要件として意思の連絡(agreement)が抽出される。もっとも意思の連絡について具体的に,conscious parallelismではもちろんのこと,invitation to colludeでも不十分であると考えるのが「多数」である,というのである。このように,条文から直ちに導かない──しかも外国語!──解釈論を正当化する論拠として,当該条文が持ち出される。ここに法(解釈学)の「柔らかさ」というか「掴みどころのなさ」があるのではないだろうか。もちろん解釈する主体(法学者,法実務家)は,相当程度の制限の下で解釈をしていると主張するだろう。例えば制定法を「枠」だと言ったり(来栖三郎),判例を実質的な法源広中俊雄)といったりする。だが実際にはヘラクレス判事(R・ドゥオーキン)はいないのである。法の世界に一歩入り込んだ素人が感じるのは,解釈論のつかみどころのなさなのである。

 法学部出身ではない人の「法の硬さ」という法に触れる前の観念が,実際に法学の「柔らかさ」に触れることで,期待が良くも悪くも裏切られる,ということもあり得るのではないだろうか。

 加えて重要なのは,法的な関係の規律が,そこまで自明ではなかったことである。これは特に日本の法社会学の文脈ではよく強調されてきたことである。すなわち,日本が近代化を達成するべく,ドイツやフランス,そしてイギリスなどの諸外国から法を継受し,現在の日本の法システムは存在する。それ以前に,「ルールのルール」(H・L・A・ハート)を一般的・普遍的で言語で表したものとして生活が規律されていなかったのではないだろうか。もし仮にあったとしても,日常的で具体的な人間関係を,わざわざ一般的・抽象的で普遍的な規律関係の下に「包摂」するという作業は,どこか大上段であり,fremdな印象を覚えるのではないだろうか。同じ抽象性を志向する哲学は好きでも民法が嫌いな人は,一定数いるのはこのためなのではないだろうか。

 

2 法社会学との結びつき

 上で述べた2つの法のわかりにくさのうち,後者,つまり法の「非自明性」という感覚から出発した法社会学的研究は多い。日本で最も有名なのは「国家法」が規律する内容とは全く違う慣習法が存在することに正面から向き合い,実際に入会慣行を調査するなどした「生ける法」研究だろう。法社会学といえば「生ける法」,と考える人もいるのではないだろうか。

 しかし前者,つまり法(解釈論)の「柔らかさ」については,法社会学で中心的な問題には──少なくとも現在において(注3)──なっていない。自分としてはこの感覚に正直にありながら,経験的な法社会学に取り組んでいきたいところである。そのために現在はドイツで展開されている法解釈論の社会学(Soziologie der Rechtsdogmatik)を吸収して,日本の法解釈論の機能ないしは構造を分析していくことができたら,法(学)のわかりにくさをいかにして馴致できるか,という問題に取り組めるかもしれない,と思う。

 

1 自分は学部は法学部で,修士も法学政治学研究科であり,本当の意味で「法学以外を専門とする学生」ではない──と少なくとも自負はしている──が,法(学)の作動や実態を隣で観察していくことが主たる研究内容であるところの法社会学を専攻するにあたっては,常に「素人の気持ち」を忘れたくはないと思っているし,そこに「法的なもの」が浮かび上がることがあると思っている。

2 以下の例は,白石教授の電力カルテル事件に関する講義を参考にした。白石教授の授業は,YouTubeで閲覧することができる:電力カルテル事件を考える - YouTube

3 かつての法解釈論争が川島武宜や来栖三郎など,多分に法社会学的マインドを有した民法学者を中心にしてなされていたことは,もちろん重要である。就中,来栖の「法とフィクション」研究をいかに承継するかは重要な問題のような印象を受ける。