邂逅,そして冬…

北海道の秋は冬に含有される。

僕らが秋を見ることができるのは本当に一瞬である。

ある種暴力的な季節でもあると思う。

 

先日宮崎に行った。母の付き添いで,祖母の家に出向いた。

北海道にはない,金木犀の香りが漂い,秋を感じさせた。

 

考えてみれば,表題において,邂逅と冬が並んで列挙してあるのはおかしい。

冬になると雪が積もるし,どうしても開放的な気分になる気がしない。

邂逅と言われて頭に思い浮かべる季節は間違いなく春だ。

今でも僕の精神は内向きなのにさらに閉鎖的になると考えると気が気でいられない。 矛盾の産物なのだ。

この言葉がひらめいたのはどういうわけか。

単に語呂が良かったからなのか。

それとも何か突発的な意味があるからなのか。

 

僕は最近家から駅まで徒歩で向かうのだが,ある時ふとこんなことを考えた。

 

もし〈僕〉が今持っている要素の幾らかが欠けてしまったら,どうなるんだろう。

例えば〈僕〉が言語と聴覚を失ったとする。

逆に言えば視覚や触覚,思考力の諸々は残されているわけだ。

この時僕は〈寂しい〉と思うだろう。

もっと言えば〈生きた心地がしない〉か。

言語を失い他人とコミュニケーションと取れないがれっきとした思考力は持ち合わせている。

デカルトの「我思う,故に我あり」という言葉が途端に意味をなさなくなる。

 

では〈僕〉が思考力と聴覚を失ったとする。

つまり動いたりすることはできるが網膜に写像するあらゆる物事について何も考えることができないのだ。

この時〈僕〉は思考力がないので上記の感情を持ち合わせない。

しかしこれを我々は不憫に思ったりするのではないだろうか。

自己は持ち合わせないが他人は持ち合わせてしまう感情だ。

これは我々が〈僕〉が持ち合わせていない思考力や聴力の恩恵を享受しているからである。

言うなれば,もし我々が〈僕〉のような欠如に陥った時を投影した時に浮かんだものだ。

我々の抱いた感情を偽善と言わずしてなんと言おうか。

 

このことはまさしく「幸せ」についても同じことが言えると思う。

「幸せは人それぞれ」なんて,僕に言わせれば偽善と傲慢,思考停止の正当化文句にしか思えなくなった。

間違いなく幸せを突き詰めると我々はそれを正当化し得ないのだ。

自分または我々を杓子定規にしか幸せを語れないからである。

幸せを一旦享受しない限りこのような言葉は生まれることはない。

 

では僕が他人の幸せを祝福するにあたり,どうすればいいのか。

僕だって人間と暮らしているわけだから社会が抱くような幸せをイメージすることはできる。

しかし僕の思う幸せはその人の幸せのピントにあっているだろうか。

このように袋小路に迷い込んでしまうこと自体が間違いなく「不幸せ」なのだから,「自分が幸せになっていいのか」などと贅沢で,愚かで,鈍感な問いかけには「祝福するよ」と答えるようにしている。

幸せはある意味秋のように暴力的だ 逆説的に思考停止をした問答が適しているわけだ。

だがそれでいいのかもしれない。

幸せは自己準拠である以上僕はこう答えるしかないのだから。

 

ここに至り僕は「邂逅」を手に入れることができた。

季節はもう冬である。