僕とフーコー

 僕がフーコーに出会ったのは大学1年の秋だった。前期の成績が振るわなかった僕は一念発起して何か勉強しようと思った。本屋でとりあえず伊吹浩一『武器としての現代思想』(サイゾー,2016)を買ってみた。知らない人の著作だが,とにかく「強そうだ」という気持ちで読んでみた。この本はフーコーの他にもニーチェマルクスラカンなどを扱っていたが,そのなかでもフーコーは存在感を持っていたように思う。

 『武器としての現代思想』ではまず彼の代名詞である「〈人間〉の終焉」という言葉が最初に飛び込んだ。この言葉の捉え方は様々ではないだろうか。

 ある人は人類の絶滅を意味すると思っているだろうし,またある人は発展する社会の終焉だと思うかもしれない。〈〉が付されていることから人間とは異なるものだと予想しているあたり後者の方が利口であると言えるが,実はこれらのどれも異なる意味でフーコーは〈人間〉を使っている。

 フーコーにとっての〈人間〉は,近代の人間中心主義エピステーメーの中で,経済学,生物学,あるいは統計学の中で構想されてきた個人であった。フーコー『監獄の誕生』では〈人間〉が前述したような学問知が一種の権力性を帯びていることで「生権力」を助けている,いわゆる共犯の産物として描かれる。

 2年前期の演習Ⅰ(法学部,郭教員)でジョージ・オーウェル1984年』とフーコー『監獄の誕生』で描かれる権力の相違を勉強した。そこでは大きな権力(『1984年』)と微細な権力(『監獄の誕生』)を大まかな対比軸で考えた。『監獄の誕生』で僕はやはり主体について大きな関心を持った。近代の延長線上である現代の我々が自明視している主体が実は普遍性を帯びたものではない。「知と権力」についてはニーチェも論じていたがフーコーはこれをもっと大胆に論じているように感ずる。近代の主体すらも知と権力の産物だというのであるから。

 演習Ⅰではこのあと現代の問題に関してのゼミ生の発表が行われた。直接的にはフーコーの思想を大っぴらに出した発表はなかったが,「AIと法」や「監視カメラ」のような問題に対して有効な手がかりにはなっていたような気はする。というのは近代法,例えば民法を思い浮かべてみると,前提となっているのは自由・平等の下で自由意志を持った〈人間〉である。出生により人間は権利能力を享受し(民法3条),死により終了する。生から死までの期間に〈人間〉として存在することができるのだ。つまりその期間では〈人間〉が自由意志を持っていることが前提なのだがフーコーはそれを監獄の中にいると批判した。ポストモダンの先駆けであると僕は思う。そして,近代法を常日頃勉強している法学部生にとっては新鮮であった。

 そして2年後期では社会思想史でフーコーの思想を勉強している。受講していて,特に『狂気の歴史』では『監獄の誕生』に通ずるところがあるのではないかと思う。ルネサンス,古典,近代と区分されたエピステーメーを我々は自明視し,その匂いを嗅ぎとることすらも日常の中では困難なように感ずる。区分の正確性は他の議論に譲るが,このような問題定義自体がフーコーの功績でもあるしまさに自由の探求者だったのではないかと思う。