同窓会に行くことの億劫さ
2019年1月14日の成人式の案内状が届いた。
思えば,僕は20歳だった。
過去にこんな記事を書いていたのに,忘れていた。
大人になるとはどういうことなのか。 - pompombackerの徒然
それに小学校,中学校,高校でも同窓会を行う風潮はあるように感じる。
しかしながら僕は同窓会に行くことに対しては幾分か消極的だ。
一つは,同窓会に出席するほどの暇がないということ。
1月の初めには論文の提出締め切りだ。
そのあとは期末試験に向けての勉強が待っている(法学部の成績評価は伝統的に期末試験のみになる。この時期の頑張りで単位は決まるのだ)。
過去にうつつを抜かしている人間ほど虚しい人間はいない。
まだ前に進めると僕は感じる。
したがって同窓会には出席しない。
これは一見もっともな主張なのだが,もしかしたらこれはタテマエのような,そんなものかもしれない。
現在論文を執筆中なのだが,それでも飲み会には参加するし,別に今から試験勉強をしていれば少なくとも単位を落とすようなことはあるまい。
おそらく,次のような理由が僕が同窓会に行かない理由かもしれない。
かつての同級生の圧倒的な変化を前にすることにとても億劫になっているのだ。
もちろん,ほとんどの人はそこまで変わっていないと思うし仮に変わったとしてもそこまでの衝撃を受けることはないかもしれない。
11月に僕は中学で付き合っていた人と会ったのだが,そこまで変わっていなかった。
僕が抱えている億劫さというものは実際は砂上の楼閣であることが実証されているようなものなのに,それが消えないのはなぜだろう。
蓋し,自分に問題があるのではないか。
小学生や中学生,果てには高校生の自分が今の自分に対して「こんなはずじゃなかった」と言われてしまうような気がするのではないか。それが億劫になる理由なのではないか。このように感じる。
同窓会に行くことに対して消極的な理由が上記のものだとしたら,かなりイタい人間だと思う。
しかし今の自分より確実にかつての自分の方が社会に対して覚めた目を向けていなかったし,人との距離の取り方を考える必要すらなかった。
なんとか「うまくやれた」し困ることはなかった。
同窓会に行っても,時間的にも,そして内容的にも大きな隔たりが現在に対してあることで楽しめないのではないか。
こう考えるとたちまち心が咆哮しているような軋みを覚える。