平成の〈終焉〉
今日で平成が終わる。
平成が終わったからといって実際の生活に変化があるわけでなく,ただただ元号が変わるだけなのだ。
そこに天皇論や右翼思想が挟み込む余地はない。
だったらわざわざ平成について書かなければいいではないかと思うかもしれないが,これがそうともいかない。
平成の前の元号である昭和が終わったのは,昭和天皇(裕仁)の崩御による。
これに対し平成が終わるのは今上天皇(明仁)が生前退位をするからだ(平成28年の「お言葉」が発端となる。「お言葉」の性質について,昭和天皇の「玉音放送(昭和20年)」と重ね合わせるものもあるがこれについては原(2019)が詳しい)。
前者がいわば突然の終焉であったのに対し,後者は事前の,意図された〈終焉〉である。
なお,天皇の生前退位については,近代化(明治)以降こそ見られないものの,それまでは天皇が上皇になるという形で,退位は行われていた。
それはともかく,このような性質を持った平成が〈終焉〉を迎える前に平成の総括をする(,あるいは試みる)ものも一定数ある。
例えば上述した原(2019)もそれに漏れないし,保坂(2019),吉見(2019),内田(2019),高橋(2018)など,史学,社会学,哲学,経済学と多岐にわたる分野で平成の総括が平成のうちに行われようとしている。
まるで平成25年前後から流行りだした「終活」のように,平成は自分で自分の身辺整理をつけていくようだ。
僕は平成だけしか時代を生きていないから,平成を語ることは言わば自殺行為,どこまで語りあげても不完全な語り,になるに違いないと思っている。
だから錚々たる方々が平成について書き上げて,反論することは不可能に近い。
これはある意味すごくずるいことだ。
平成には平成生まれなりの言い分がある。
興味深いのは,日本の元号による「時代のまとめ上げ」が行われることである。
なぜ行われるのか。
なぜ人は時代の整理という欲求に抗えないのか。