90年代に対するヘゲモニー

平成の終わりにかけて平成を総括しようとする動きが人文・社会科学を中心にあった。

僕はこの現象を正しく平成の最後に社会現象化した「終活」に見立てた。平成の〈終焉〉 - pompombackerの徒然

いかにも平成的といえる〈自分語りのようなもの〉を我々は感じることができたし,感じながらもそれを悪しきものだと拒まず原武史の『平成の終焉』(岩波新書,2019年)や吉見俊哉編『平成史講義』(ちくま新書,2019年)を手に取った人も多いのではないか。

僕もその一人なのだが,残念なことに(?)僕は平成の20年しか生きておらず,ちょうど最初の10年は生まれてない。

しかしながら平成の最初の10年(90年代と言ってほとんど良いと思うのだが)に生じた社会問題・出来事はよく見聞きするところである。

それゆえ90年代には何かしらの幻想を抱いているのではないかと自分で思って見たりする。

Running in the 90’s - pompombackerの徒然

 

正確には異なるかもしれないが,戦後日本を支えた高度経済成長から脱却しバブル景気になった日本の頂点と平成のはじまりは重なり,バブルが弾け90年代には一気に不景気にかけ落ちた。

これには冷戦の終結・情報時代の台頭・グローバル化など諸々の要因が考えられるがそれはともかく90年代は「忘れられた10年」と言われるほどの不景気出会ったという。

 

しかしながら例えば90年代の音楽を聞く限りそんな空気は微塵も感じさせない。

むしろ92年にこの世を去った尾崎豊の曲の方が鬱々しさを感じられる。

しかし,そうであるが故になるかもしれないがこの意味で尾崎豊は90年代を経験していない。

小室哲哉が音楽シーンを総ナメにした時代のように映るし,SMAPが登場しいよいよ本格的なアイドルユニットが出てくる。ZARDの存在も不可欠だ。

僕が最近よく聴いている曲はダウンタウンの浜田が歌う「Wow War Tonight 〜時には起こせよムーヴメント〜」である。

YouTubeのおすすめの欄に出てきたから聴いたら「アタリ」だった。

時には起こせよムーブメント - YouTube

忙しさに翻弄される人間に対して強く何かを投げかけていると思う。

「がっかりさせない期待に答えて素敵に楽しいいつものおいらを捨てるよ

自分で動き出さなきゃ何も起こらない夜に何かを叫んで自分を壊せ」

 

このような華々しい音楽シーンの一方で社会問題とされたものは今までの日本社会とは異質なものだったと言える。

平成元年の宮﨑勤事件はその先駆である。

そしてその後の平成7年の地下鉄サリン事件

もっと細かくかけばキリがないがこれらの事件は90年代をある意味象徴する社会問題だったと令和元年に生きる僕は考える。

またいわゆる「走り屋文化」も90年代にピークを迎えている。

頭文字D」や「湾岸ミッドナイト」はこれを如実に体現した漫画だと言える。

その中で社会は他者とされる者に対して寛容だっただろうか。

言い換えれば,包摂/排除の選択が社会にはあるが社会は未来が見えず教祖の元に集ったインテリたちややり場のない怒りに身を任せて風を切る走り屋たちに対して包摂を行ってきたのだろうか。

僕はそうは思えない。

 

平成の政治にはカリスマがいないとはよく言われる。

いわゆる衆愚政治と昔なら呼ばれる状態が現在の日本の政治なのかもしれないがこうしてダラダラと政治を行ってきたときに他者との向き合い方がわからなくなるのかもしれない。