Running in the 90’s

最近,札幌市の地下鉄にメロディーが流れるようになった。

流れている曲47年前の札幌オリンピックのテーマ曲「虹と雪のバラード」であり,どうやら冬季五輪の誘致の取り組みの一環になっているらしい。

地下鉄駅メロディーに札幌五輪テーマ曲「虹と雪のバラード」 | NHKニュース

最初に耳にした時は新鮮に感じたが,数日経てば特に何も感じなくなった。

いわば地下鉄についたメロディーは「いつもの地下鉄」の中の1つの要素として吸収されていく。

 

同じことは,他にも言える。

 

例えば,去年の夏に大学構内でセイコーマートがオープンした。

僕は開店初日に突撃し,そのあと数週間は昼食はセイコーマートでするようになっていた。

しかしながら今では以前のような「特別感」といったようなものは無くなって,ご飯を食べるための選択肢になった。

 

両者とも,何か新しいものが以前からあったものに吸収されていき,時間が経過するとともに「いつもの」地下鉄,あるいは大学の1要素になり,そして新しさが隠蔽されていく。

 

 

逆もある。

つまり元から存在していた要素が無くなっても,その変化に気付かないことだ。

 

例えば,よく通っていたラーメン屋の味。

昔よく通っていたが,ながらく顔を出していないラーメン屋に行き,「昔と変わらないこの味」と言う。

しかし店主は苦笑いをする。

麺を変えたのだ。

このような変化に客は鈍感だ。

 

大学受験で使い込んでいた参考書を本屋で見て,それが改訂されていてもよほど参考書オタクでない限りその変化に気づくことはない。

 

このように,人は何か変化をした物を認知するときにその物に何か変化が生じていたとしてもその物(A’)を思い描いていた物(A)と同一視する。

つまり,物の同一性は保持されたまま対象物は認知される。

しかし対象物(A’)は絶対に過去の物(A)ではあり得ない。

 

幾分の微細な変化は繰り返されると結果的に大きな社会変化になる。

丸山眞男の言うところの「開かれ,なおかつ閉じた世界」である。

世界は変化しようとしなくても変化する。

 

20世紀後半の言語論的転回から派生して過去・現在・未来の境界線にスポットを当てるようなポスト構造主義的なプロジェクトが起きた。

「現在の自分は存在するか」という問いも哲学,とりわけ分析哲学,では大きな問いであった。

「今ご飯を食べている」と発している自分はその瞬間にご飯を食べていない。

また,コンテクストと事実が合致しないという課題は社会構築主義の悩みの種でもある。

 

人々は曖昧だが明確な境界線を引くことで物事を単純化していく。

そして,所属している社会の変化に立ち止まって考える以外変化に対して継続的に反応することは稀だ。

 

平成最後を生きている僕たちは平成初期に生きている(た)人たちとどのくらいの違いがあるのだろう。

平成という一時代の同一性の中で次の時代に生きている(だろう)人たちに一括りに扱われるのだろうか。

「終活」という言葉も生まれた平成は自己語りを始めるのではないかとも思っている。

 

90年代から社会に出ていた人たちと10年代から社会に出た人たちとでは大きく日本の意識が異なるように感じる。

もちろん要因としては諸々のものが考えられるが,日本社会の同一性動向に関してはこのことは意外に重要なのではないかと思う。

 

注)表題のRunning in the 90’sは最近視聴している「頭文字D」に使われているユーロビートである。

とてもハマってしまった。