小坂井敏晶『増補 責任という虚構』(ちくま学芸文庫,2020年)を読む

月に2回のペースでブログの記事を書くようになった。

そして2月の2つ目の記事は「朝井リョウ再読」にするつもりだったが,朝井リョウ『死にがいを求めて生きているの』が今手元にないので今回は小坂井敏晶『増補 責任という虚構』を読んでいこうと思う。

 

まず筆者についてであるが,小坂井敏晶氏(以下,敬称略)はパリ第八大学で社会心理学の准教授である。

著書として『人が人を裁くということ』(岩波新書,2011年),『社会心理学講義』(筑摩選書,2013年),『神の亡霊』(東京大学出版会,2018年)などがある。

なお最後の『神の亡霊』は,2020年度東京大学入学試験で国語(理系)の現代文の出典元でもある。

そして今回の『増補 責任という虚構』は『責任という虚構』(東京大学出版会,2008年)を加筆修正したものであるとされる(大きく,補考として「近代の原罪」,そして尾崎一郎氏の解説が加えられている)。

小坂井は2018年に北大で「常識を見直す難しさ 矛盾と比喩の効用」という講演をされており,聴きに行ったが,当時はイマイチよくわからなかった。

「二つの事実や理論の間に矛盾が見つかる場合,そのうちの一方を採用して他方を否定するという解決に我々は走りやすい。しかし,どちらも維持しながら,考え方の出発点自体の再考を通して矛盾を止揚する方が,より満足な解決をもたらす」(『人が人を裁くということ』154頁。決して法律学にありがちな折衷説のことを言っているわけではない)。

 

誰かがこの本を本屋で手に取るとき,おそらくだれもがその題名に目を引かれたからだと答えるだろう。

そして特に(法)哲学者・倫理学者は反発さえするかもしれない。

「虚構」という言葉が持つ常識を小坂井は否定する。

虚構の対義語としてしばしば事実・現実(もしかしたら真実すら出るかもしれない)が挙げられるが,これは虚構と現実を二律背反として捉える「常識」である。

しかし小坂井理論によると,両者はむしろ密接不可分の関係にあり,世界を理解するために虚構は必要であると説く。

この虚構の1つとして,「責任」という概念が暴かれていく。

 

近代法の基礎として責任主義は原則としての地位を他に譲ろうとしない。

例えば,我が国の民法不法行為法)においては「不法行為によって他人に損害を与えた者に損害賠償責任を問うためには,〔・・・〕知能ないし判断能力について,最低限一定の能力を備えていること」,すなわち責任能力があることが必要条件であるとされる(藤岡康宏ほか『民法Ⅳ〔第4版〕』(有斐閣,1991=2019年)304−305頁)。

その証左として「自己の行為の責任を弁識するに足りる知能」を備えていない未成年者(民712条),そして精神上の障害により「自己の行為の責任を弁識する能力」を欠く状態にある者(民713条本文)が責任能力がないとして免責される。

もっとも,民事法では無過失責任もあるが(例えば,自賠法3条など),刑法においては違法性阻却事由として議論される(例えば刑39条)。

このように,いわば侵害された法益の原因として責任が位置付けられている。

ところで,責任がなぜ問いうるかというと,法益を侵害した行為者が自らの自由意志により,まさに自由な行為選択を行うことができたから行為者に責任を負わせられるのであり,そして賠償責任を負わせる/処罰することができる。

すなわち,

⑴行為者は行為時点で行為選択において自由であり,主体的・人格的責任を伴っている

⑵行為者は自らの自由意志で法益侵害行為を行った

⑶行為者は責任を負い,賠償する/処罰されるべきである

という図式が近代法の根幹にある。

そして「法における人間」(ラートブルフ)像は,いわゆる「超越論的自由」に基づいた理性的存在としてア・プリオリにみなされる。

 

しかしながら,他方で近年の人間科学の発展により,人間は近代法が想定しているほど理性的・自律的ではない上に,自由意志のようなものは体のどこにもないことが実証され続けている。

そこでは人間には自由意志という内部はなく,周りの環境・そして遺伝という外部からの皆る沈殿物としてのみしか説明できないことになる。

そうなれば上記の責任主義は揺るぎをせざるを得なくなる,というわけだ。

 

小坂井は第1章でドイツ・ナチスが行ったホロコーストを考察する。

戦後70年以上経った現代でもホロコーストをはじめとするナチスの残虐な行為は議論を醸し出す(なぜ過去の世代によってなされた不正義が現代でも問われるのか,という問いはそれ自体とても興味深い。しかしここでは触れない。『神の亡霊』199−203頁参照)。

しかしながら世間はナチスがなぜ残虐な行為に及んだか・いかにしてなされたのか,に関して根源的に問い詰めてこなかった。

そしてしばしばフランスなどの諸外国ではホロコーストという非人間的な残虐行為は絶対生じなかったと言い張る(小坂井はフランス語版である«Responsabilité morale et fiction sociale»を出版社に送ったところ,出版を拒否されたという。小坂井のホロコースト解釈に腹を立てたからである。本書481−483頁)。

しかしながら小坂井はそこにメスを入れる。

まずナチスの構造を分析する。

すると驚くほど合理的に完結した組織であったことを挙げ,人材の均一化,そして分業によってなされる責任の分散により効率的に人を殺していくシステムこそがナチスであったと説く(この点はArendtの全体主義の要素としての“bureaucracy”と関わるかもしれない。See, H.Arendt, The Origins of Totalitarianism, (Harcourt, 1973) pp.185-221.)。

①人材の均一化

ナチスは狂信者,殺人好きというレッテルはしばしば貼られるが,むしろそういう者はナチスから排除された。

ナチスの兵士達はとても真面目で,上から出された任務をこなす「普通の人々」にすぎない存在であった。

だからこそ「大量殺人への加担には,このような邪悪な計画の中に想像しがちな悪魔の異常な感情を必要としない」ところに衝動的に拒絶したくなるわけである(本書125頁註99)。

②分業によってなされる責任の分散

しかしながら,「普通の人々」にとって,大量虐殺を行うのはやはり精神的な負担が過大になる。

そこで,それぞれに役割配分を与えることにした。

例えば,ユダヤ人をトラックで運ぶ者とユダヤ人を収容所でシャワー室まで連れて行く者,そして殺戮を実行する(ボタンを押す)者を分けるなどをした。

この分業体制のもとで各人が各人の責任を負わないという心理が働く(「こうするしかなかった be obliged to do」)ことで,正当化の論理が完成する。 

そして,小坂井は戦後にかけて得られてきた人間科学の知見を挙げ,ドイツ人を本質化することなく,残虐行為は状況次第で誰にでも起こりうるものであると突き放す。

以上のように、分業からなる社会行為であるユダヤ人の大量殺戮行為はまさに個々人の行為から遊離した社会的相互行為であるがゆえに個々人には行為選択の自由はなく,因果関係の始点としての責任を問い得ない。

ここに矛盾が生じる。

 

責任転嫁の論理はなにもホロコーストに限った話ではない。

小坂井は第2,3章で現代日本で問題となっている死刑,そして冤罪について論じる。

論じると言っても,死刑に関しての善悪たる規範論ではない。

死刑をはじめとする刑罰がどのように維持され,どのような機能を果たしているのか。

これを論じる。

 

死刑制度を採用している近代国家は至るところに分業体制が観察できる。

小坂井によると,分業体制があることで,死刑制度が可能になるという。

日本においては,「裁判官」が判決で被告人に死刑を命じ,判決に応じて「検察庁」が上申を行い,これに沿って「法務省の官僚」が検討を行い,そして「法務大臣」が決裁を行う。

もちろんそれだけでは死刑は実行されない。

刑務所の看守たちの役割が不可欠である(そのため霞ヶ関で審議した者たちにはこのリアルは不可視化される)。

すなわち,死刑囚の死刑実行に際して,「死刑実行を言い渡す」役割,「死刑囚を運び出す」役割,「死刑実行の準備をする」役割,「死刑実行のボタンを押す」(我が国では3つのボタンを一斉に押す。その中の1つだけが本当のボタンである)役割,「死刑囚の遺体を片付ける」役割(通常死刑囚にさせるという)などなど,役割が分担される。

このように,因果律の始点としての責任者は誰にも定まらない。

上述のナチスホロコーストの過程と構造的に同じなのである。

「無責任体制のおかげで死刑制度が可能になる」(本書150頁)。

 

冤罪に関しても分業が顔を覗く。

ここでも具体的な特定人に冤罪の責任を負わせる事はできない。

刑罰の執行に関する一連の分業プロセスは有機的に接続する社会運動に他ならない。

こうして個々人から遊離した〈外部〉に責任の源が投影される。

冤罪に際して興味深いのは,小坂井は冤罪は必然であると悟る。

集団行為という性格から冤罪の根拠は個人には還元されず,偶然の結果であり,「組織の力学」によるものである。

 

しかしこれだけにとどまらず,小坂井は冤罪のより根源的な原因である罪や責任の本質にメスを入れていく(第4・5章)。

そもそも因果律の始点として責任であったりその裏返しである自由意志を捉えるという発想自体が誤謬をきたしているのである。

というのも外因とされる環境はおろか,内因とされる趣味・嗜好は偶然生じたものであり(自ら選んだという感覚は感覚以上の性質を有さないのである),実は外因である。

つまり主体たる自由意志・責任は個人のどこにもない。

ではどうすれば現在起こった事件を処理すればいいのか。

そこではじめて責任やその裏返しである自由意志の出番となる。

小坂井はフランスの社会学者であるデュルケームやフォーコネを参照しながら,責任の意味を説く。

主体はどこにもない。

その意味で事件の犯人とされている者はスケープ・ゴートである。

にも関わらず犯人を見つけ,そして処罰するのは「犯罪の原因究明ではなく,けじめをつける目的で犯罪のシンボルとして破壊するための対象選定だから,スケープ・ゴートとして選ばれたシンボルがまさしく犯人であり責任者に他ならない」からである(本書297頁)。

その意味で,因果律の始点としての本当の責任者(犯人)は人間には見つけることができない。

見つけられるとしたら,それは神という〈外部〉である。

ところで,近代において神は死に,その代わりに国家(あるいは社会)という〈外部〉が誕生した。

そして分業した体制の元でなされる処罰の有機的プロセスは国家になされたものとみなされる。

つまり「自由であったから(責任を持っていたから)処罰される」という清浄な因果律ではなく,「処罰する必要があるから責任を負わせる」わけである。

順序が逆転しているわけだ。

 

小坂井の鋭い・根源的な問いは近代法・道徳を揺さぶる。

しかしながら現在の規範に対しての賛否を全く論じない。

むしろ小坂井は覚めた目で、記述することに徹する。

 

このような法規範が前提とする建前と人間科学の知見,すなわち自由論と決定論は矛盾しないか。

これが本書で小坂井が貫くテーマである(ちなみに決定論と非決定論を論じたものとして,「フィクションとしての自由意志」という論文がある。民法学の来栖三郎である。尾崎解説も述べるように(本書497−498頁),小坂井理論のあと一歩まできていると言える。来栖三郎「フィクションとしての自由意志」『法とフィクション』(東京大学出版会,1999年)283−325頁[初出=1995年(法協112巻11号1459−1502頁)]参照)。

小坂井は法や道徳といった規範と自然法則が,法だったり規則という言葉の意味の混同がなされていることを指摘する。

その上で,前者は規則に反した行為がなされても規則自体が消滅することはなく,規則に対して違反が生じた後に強制力を以て規則を成り立たせしめる意味での規則であるのに対して,後者は「物体が実際にどのような運動をするかの端的な記述」(本書243頁)にすぎず,もし法則の否定が生じた場合はそれは法則自体が誤っていることを意味する(法社会学の講義を受けた人間なら,N・ルーマンの「規範的予期」と「認知的予期」を想起するかもしれない。N・ルーマン村上淳一六本佳平訳〕『法社会学』(岩波書店,1972=1977年)47−63頁参照)。

そして,「「人間世界から独立した自然界」という認識が生まれて科学が発達し,それにともなって自然界を律する因果律という見方が,責任を問うという,より根本的な問題から徐々に切り離されていった」とする(本書246頁)。

この区別で規範(自由意志)を擁護するかといえばそんなことはない。

やはりそんなものは実在しないと世に蔓延る「べき論」にメスを入れる(本書367−371頁・特にR・ドゥオーキン,J・ロールズの正義構想の批判的検討に関して,『神の亡霊』286−288頁参照)。

しかしながら「人間存在のあり方を理解する形式が意志と呼ばれ」る(本書238頁),すなわち社会規範の一形態として社会的に構成された「解釈枠」であるとする。

まさにその意味で自由意志は虚構であるのだ。

社会規範としての虚構である自由意志はその虚構性が隠蔽され,それゆえに道徳や宗教、そして法という個々人から遊離した規範が機能する。

 

なお,やや冗長である補足しておくと,この社会規範は固定的なものではなく,ましてや人が操ることができるものではない。

だからこそ〈開かれた社会〉が考えられるだろうし(本書266頁註56),必然的に「べき論」は閉じた社会を構想してしまう(本書446−451頁・『神の亡霊』262−266頁註13)。

また刑法の逸脱たる犯罪も社会の定義上なくなることはないという。

これだけ言われると反発を生むであろうが,「悪の存在しない世界とは,すべての人々が同じ価値観に染まって同じ行動をとる全体主義社会だ。つまり犯罪のない社会とは理想郷どころか,ジョージ・オーウェル『一九八四年』が描くような人間の精神が完全に管理される世界に他ならない」のである(259−260頁)。

 

増補版で小坂井は「近代の原罪」という補考を書き下ろしている。

そこでは,5人の社会学者や心理学者が,主体の揺らぎを認めながらも,自由意志の存在を否定しないことの考察をしている。

これがなかなか興味深い。

大きく2つのことを小坂井は論じている。

1つは小坂井理論を規範論と誤解してしまう倫理学者に対する反論である。

これは些末なことであるから説明を省く。

大事なのはもう1つ,つまり,因果律の始点として自由意志(責任)を捉えないにせよ,にもかかわらず自由意志の存在を否定しないことの分析である。

すでに見てきたように,身体と精神は外部要素の沈殿物である。

デカルトの“Cogito ergo sum”は論理飛躍に他ならない。

しかし近代はなぜ自由意志にすがりつくのか。

小坂井は「超越的源泉が消え,根拠が外部から内部に移動した」ことに気づく(410頁)。

つまり「自由・平等」に象徴されるような近代のエピステーメーが隠れている。

だから完全な記述論を行う小坂井と他の論者には正反対の結論が導かれるわけである。

このイデオロギー性が最後に暴露される。

「近代を迎え,世界の秩序が人間自身によって作り出される事実に人間は気づいてしまった。秩序を保証していた超越的根拠が消え去り,本来の恣意性が露わになった。共同体の外部に最終根拠を見失った近代は,自由意志と称する別の最終根拠を個人の内部に発見した。だが,これは神の擬態だった。内因はデウス・エクス・マキナだ。人間を超越する外部を捏造した前近代と同じ論理が踏襲されている」(本書417頁)。

 

以上,ごく簡単にではあるが,小坂井敏晶『増補 責任という虚構』を概観してきた。

他にも様々な論点があり(個人的には「べき論と相対主義」を掘り下げたいと思ったが完全に省いた),そして細かい疑問点がいくつかあるが,ここでやめておく。

学識のなさからして,小坂井理論を完全に理解しているとは思えないが,個人的には大変知的刺激に満ちている著作だと思う。

 

僕が読んだ小坂井の最初の著作は『神の亡霊』であった(ゼミの文献購読で読んだ)。

本文に比べて註釈が3倍あり,なおかつ本文が凝縮された文体であり,読むのに苦労した思い出がある。

ゼミでの議論も殆どが註の内容であり,なかなか不思議な本である。

 

あの時に感じた脳髄を引っこ抜かれるような知的刺激をまた求めることを切に願っているから僕は本を読んでいるのではないだろうか。