生まれてこなかったほうがいい人間はいるのか

個人の責任?社会規範の失敗?

こんにちは。pompombackerです。

最近に新幹線で殺人事件が起こるという痛ましい事件が起きました。

 

僕が参加しているスペイン語勉強会ではこれを機に新幹線にも「監視体制」が取られるのではないかと先生は危惧していました。

 

この「監視社会」については来月記事にしていきたいと思います。

 

それはさておき,《事件のあらまし》を概説しておくと,

⑴新幹線内で甲が鉈(なた)を所持,女性2人に鉈を用いて傷害を負わせる。

⑵この騒動を見ていた乙が甲を止めようとしたが,甲が乙の首を鉈で切りつけ,

⑶その後甲は乙にまたがり,鉈を振り下ろし続けた。

⑷甲は現行犯逮捕され「3月ごろに事件を起こそうと鉈を購入した」と供述した。

⑸乙は東京大学大学院博士課程を退学し,優秀な特別研究員であった。

となると思います。

 

⑴〜⑷については刑事系の問題に関する論点になりそうですが,⑸は一般的な実定法学の領域の外にあると思います。

しかしながら,今回の新幹線殺傷事件(以下,事件)のツイッターの反応を見ていると,どうやら⑸が社会的な関心になっているので主にこの記事では取り上げて行きたいです。

 

⑸について,自分なりに考察してみました。

乙は一般的に社会的地位が高い人間であり,それに対して甲は「人間関係の構築がうまくいかずに,人との接触を拒んでいた(出典:FNN)」ようで,社会から逸脱していた人間だと思われる。この両者の対比がネット社会で大きな波紋を呼んでいるのではないでしょうか。

このような極端な状況設定の中で社会(anonymous)の隠れた言説(discours)が皮肉にも取り出されていきます。

すなわち,

社会にとって有望な人間がそうではない人間に殺されるのは理不尽だ

と。

これを前提にしていくと読者の皆さんにはいくつかの疑問点が浮かび上がってくることでしょう。

僕はそれらを①正義の問題,②社会規範の問題,③個人の問題の3つに大別できると考えています。

しかしながら,①と②に関しては相対的な問題に過ぎません。

大事なのはは②と③なのです。

 

 

これらの問題をより深く見ていくために,少し遠回りをしてある映画を紹介していきましょう(結論だけ知りたいという方はこの節は読み飛ばしてもらっても差し支えありません)。

それは,去年(2017年)の秋に公開された『三度目の殺人』という映画です。

 

『三度目の殺人』という法学部生と見たくない映画

この映画は福山雅治演じる重盛が役所広司演じる容疑者三隅との弁護を通じて心境が変わっていくという映画です。

詳しい内容はこちらに書いてあります。

三度目の殺人|若手弁護士・川島輝役は満島真之介!演技評価と感想

個人的な感想としては,「この映画は法学部生と見たくないな〜笑」と。

というのは弁護士重盛がカッコよくないんですよ。福山雅治なのに。

彼は裁判を「当事者間の法益の調整」とのみ捉えるんですよね。

法学的に言っていることは正しいですが,法学部生の中には何か彼を気に入らないと感じる人もいるでしょう。

個人的な偏見ですが,弁護士や検事など法曹界を目指している法学部生には少なからず「正義の実現」という熱い思いを抱いている人間もいると思います。

そういう方々と一緒にこの映画を見ることは難しいだろうなぁと感じました。

まぁ刑事訴訟法の理解に役に立った(特に公判前整理手続き,裁判員制度など)ので観るのはいいと思います。

 

さて,この『三度目の殺人(以下,映画)』と事件が結びつくであろうことを

述べていきたいと思います。

 

物語の中で,重盛が「生まれて来なければよかった人間はいる」と言います。

それに対して,若手弁護士の川島が「無駄な命なんてどこにもない」と言い返します。両者の主張のすれ違いが見えて面白いですね。

僕は川島がどうも青臭くて苦手です。

ここでは三隅が二度目の殺人を行なった,つまり二度も人間の尊厳を蹂躙したわけですからとても自分だったらこんなことは言えません。

それはともかく,ここで重盛の発言を見ていきましょう。

彼は三隅が二度の殺人をしたことにより死刑は免れないと主張します。

そして「生まれて来なければよかった人間はいる」と結論付けるわけです。

この根底には社会の逸脱行為は個人の問題であるという考えが流れていると僕はとらえました。後に元裁判官の重盛の父の発言から分かるように,昔は犯罪行為は社会の責任でもあったが,現在では個人の責任に帰着すると理解できます。

 

また,容疑者の三隅は「命は理不尽に選別されている」という,個人の価値というものは不平等だと言います。

これは,言説のそっくり逆のテーゼで,真になります。

このように,社会規範に背いた行動を取るのは個人の責任だというのがこの映画でも主張されていますが,ではどうしたら事件のような悲劇が無くなるのでしょうか。

 

現代にも通用する?『アノミー理論』

ここで,個人の問題として,デュルケームの『アノミー理論(Theory of anomie,Durkheim)』を取り上げておきましょう。

アノミーとは,社会規範が弛緩・崩壊することなどによる,無規範状態や無規則状態を示す言葉であり,個人化・社会分業化が進んだ近代社会において,地縁・宗教など共同体的な要素を持たなくなった個人が依り代となるものがなくなったことに起因します。そのために法の規範化が進んだとも言えます。

今回の事件でも甲は人間関係をうまく構築できず,社会に対してネガティブであったのではないでしょうか。いわゆる社会的逸脱です。

だとすると個人の問題でもありながら実はこれは,アノミー理論が現代でも通用するなら,社会の構造的な問題であったとも考えられるのではないでしょうか。

つまり規範の逸脱を乗り越えるためにはどうすればいいか,これから考えていかなければなりません。

 

再び⑸と言説に戻って考えてみるとまた面白いかもしれません。

僕はこの言説的規範そのものを乗り越えなければならないと考えます。

読者の方はどうでしょう?

 

 

事態の収束の予想-法と社会規範の関係,法の限界など-

ここまでの議論を加味して,事件について見ていきましょう。

事件が社会にもたらした大きなことはやはり殺人の被疑者と被害者の社会的地位の差異だと思います。

司法がこれについて判決で触れることは絶対にないと思いますが,ネット社会に形成されうる世論は確実に⑸を重要視するでしょう。

しかしながら,司法は世論を無視するかと言えば,そういうわけにもいかないでしょう。裁判員裁判になったとすればなおさらではないでしょうか。

このように,法と社会規範は相互に応答し合うことが必要になります。

ではその規範から逸脱する者に対しては?法が事後的にその人を裁くしか現状ではないんですよね。

そして法が逸脱者を裁くことにより法のイデオロギーは再生産されていく。

このようなサイクルモデルに一般的に両者の関係はなると思います。

 

しかし,法は所詮事後的にのみ法益を調整するのみで事前にはどうしても「無敵の者」に対しては効力を持ち得ません。

ではどうするか。それはコミュニティに関する構造的な問題になってきます。

例えば,行政がしっかりと市民がコミュニケーションを取っていく場所を設ける。

構造の問題なのだから要因を突き止めて改善する。

あまり具体的ではないですが,これらが思い浮かびました。

社会的価値が高い(とみなされる)人間のみならず,一般の人間が悲劇に巻き込まれないためにはどうすればいいか。

難しい問題ですが考えていければいいなと思いました。