グンター・トイブナー「グローバル・ブコーヴィナ──越境的法多元主義の発生に向けて──」訳(下)

グンター・トイブナー「グローバル・ブコーヴィナ──越境的法多元主義の発生に向けて──」訳(上) - pompombackerの徒然

グンター・トイブナー「グローバル・ブコーヴィナ──越境的法多元主義の発生に向けて──」訳(中) - pompombackerの徒然

 

Gunther Teubner, “Globale Bukowina : Zur Emergenz eines transnationalen Rechtspluralismus” in Rechtshitorisches Journal 15(1996), S.255-290の和訳を行っていく。今回はS.273-283の訳出である(論文の以下の訳出はしない)。

 

Ⅴ.

 我々はここまで見てきたところによると,法多元主義理論はグローバルな次元において特殊=「脱国家的(staatenlose)」な法現象を,国家の(ないしは国家間の)法への伝統的回帰をすることなく,同定することができるのであった。しかし同時に,次の問いにはまだ答えが出されていない。すなわち,グローバルな政治システムないしグローバルな法制度が存在することなしに,バイナリー・コードの基礎とグローバルな妥当性の要求を伴いながらも,国家法の基盤なくしてグローバルな法的論議は定着すると我々は考えることができるのだろうか。この問いに対する答えは,グローバルな法が国家から「離陸(take-off)」する内容となっている。つまり,グローバルな経済法は構造的にパラドックスを有している。グローバルな経済法は契約の自己妥当性のパラドックス(dem Paradox der Selbstvalidierung des Vertrag)についてその妥当性を理由づける。このパラドックスを契約上の自己に関する物事にまで「引き伸ばす(entfalten,訳注5)」ことに成功すれば,グローバルな経済法はよく作動されうる。

 レックス・メルカトーリアの枠組みにおいて,国境を超え,純粋な国家法生成物はグローバルなものに変更するのが契約実務である。つまり,無数にある国際的な個別取引・国際職業集団の標準的契約・発展途上国における組織や調査プロジェクトが行う前もっての契約などがそれである。これらのような契約が越境的な妥当性を主張するやいなや,単にそれらの契約が根底としての国家法から切り離されるだけでなく,何らかの法秩序のよりどころを失くすことになる。これにより,不幸な結果が招かれる結果となりかねない。法基盤〔すなわち国家法や国家間の協定〕なき契約は考えられないとするのは,法律家に限ったことではない。どの契約も既存の法秩序に基づかなければならないということは,法的公理(ein rechtliches Axiom)に留まらない。つまり,社会学者もまた,法律家と並んで「法なき契約」に激しく抵抗する。エミール・デュルケームの著作はどの契約の自律性(jede Vertragsautonomie)に対しても,契約の拘束力はより広い社会背景に基づかなければならないという大きな批判をした。何らかの法秩序の基盤なきレックス・メルカトーリアの自律性に対し,以下の法社会学的な問いが立つ。すなわち,グローバルな契約締結の「非-契約的要素(nicht-vertraglichen Voraussetzungen)」はあるのか。

 契約そのものの中なのだろうか。しかしそうなるとある種の袋小路に入り込んでしまいそうである。というのは,契約の自己-内立法(Selbst-Inkraftsetzung)は自動的にパラドックス──クレタの嘘つきのパラドックスの契約バージョンである自己言及のパラドックスに陥るからである。積極的な意味合いにおいては(「我々は我々の協定が妥当するものであることに賛成している」)全くのトートロジーになろう。逆に消極的な意味合いの下では(「我々は我々の協定が妥当するものでないことに賛成している」)典型的な自己言及のパラドックスに陥っており,そのパラドックスは終わりなき振り子の揺れ(「妥当──非妥当──妥当──・・・」)と封鎖(Blockade)以上の結果とならない。その結果は定まることはない。主にこの基礎を成しているパラドックスのために,法律家も社会学者も取り決めた契約の効力を考えられないと言明し,レックス・メルカトーリアの間違いを論証するわけである。

 しかし法ドグマティークや社会理論が空想するよりも,社会実務は創造的である。カオテラルユリスプルーデンツ(Kauteraljurisprudenz),それは国際契約実践のことをいうが,それは取り決めた契約の効力に関するパラドックスの隠蔽とそのような一見不可能な契約を可能にする,すなわち,グローバルな契約が自身の非-契約的基盤そのものになることを見つけた。脱パラドックス化(der Entparadoxierung)の方法は3つ──時間化(Temporalisierung),階層化(Hierarchisierung),外部化(Externalisierung)──があり,それらは相互に支え合い,そして国家援助の利用を自らの中心に置くことなしに,周辺部分のグローバルな法を中心に建てることを可能にする。

 このような国際取引に基づいた完全な脱パラドックス化はいわゆる「閉路的な仲裁(closed circuit arbitration)」を経験的に証明することができる。ここで重要なのは普遍的な妥当性を要求しながら特殊=私法秩序を創出するという点では単純な経済的交換関係を超えている,自己統御的な契約である。実体準則(substantiellen Regeln)と比べると,これらの自己統御的な契約は紛争は仲裁裁判所に行くよう指示し,同時に委員会を伴って意味内容を確定でき,モデルとなる契約(der Modellvertrag)をあらかじめ創っている指示を含んでいる。

 第一に,これらの契約は契約準則の内部階層を作る。この階層はハートの意味における,当事者の将来の行動を服せしめる第一次準則(Primärregeln)のみから成るのではなく,手続きを以って第一次準則の同定を確実なものにし,[第一次準則の]解釈と紛争解決プロセス(Konfliktlösungsprozeduren)を操作第二次準則(Sekundärregeln)も同じく含む。つまり,自己-内認証のパラドックスは依然として残るものの,階層的な,すなわち規範とメタ規範の次元を分離することによって「引き伸ばされる」。準則と異なり,メタ準則は自律的であるものの,両者は類似の契約の起源(den gleichen vertraglichen Ursprung)を有する。すなわち,各次元が相互に結びつきあっているものの,それに関して高次の規範が低次の規範を操っていることを隠さない意味で,その階層は絶対的に「縺れた(tangled)」ものになっている。

 第二に,これらの契約はパラドックスを時間の上に置き(temporalisieren),法的行為の継続的なプロセス,つまり法的行為と法構造の相互の構築化の連続の中で,契約の自己-認証の円環を変換する。まず,いずれの契約も未来志向的な(prospektive)要素と過去志向的な(retrospektive)要素を有している。一方,──過去志向──によってあらかじめ存在する大量の標準化準則を,そしてもう一方──未来志向──によって将来の紛争解決を参照させることにより,その契約は独自の新しいシステム要素を再生産するネットワークの中で,自ら独自の継続的で自己産出的なプロセスの要素へと(zu einem Element eines ständig weiterlaufenden, selbstreproduktiven Prozess)なる。

 第三に,そして最も重要な点であるが,自己言及的な契約は外部化という脱パラドックス化の技術を用いる。契約が妥当性条件の判断と将来の紛争解決を外部の非-契約的な諸制度に割り当てることにより,契約自らの不可避である自己-認証を外部化するのであるが,にも関わらず,その諸制度がただの契約内部の産物そのものであるという点では「契約的」なのである。この自己行為的な制度とは,仲裁裁判所である。仲裁裁判所は契約の妥当性の判断を義務付けられているが,その特殊=仲裁裁判所的な正統性は仲裁裁判所が妥当性を判断しなければならない契約に基づいているのである。この点で契約の自己-内認証の悪循環は契約の紛争調停のしっかりとした円へと変わる。内部の循環関係はそうして外部へと変えられる。我々はこの契約と仲裁裁判所の制度的な二極の循環関係を自律的な法システムの基礎としての「再帰カニズム(reflexive Mechanismen)」(シュタイン)と呼ぶ。発生しているグローバルな法的論議の中核要素は,専門的なバイナリー・コード,つまり法/不法の区別の使用と,非-国家的,非-国際的,そしてグローバルな妥当性のシンボル(Geltungssymbols)のプロセスである。準-裁判所からの契約の構築化と比べると,更なる外部化は,パリの国際商事裁判所(die Internationale Handelskammer)やロンドンの国際法協会(die internationale Rechtsvereinigung),アントワープの万国海法会(die internationale Meerekommission)その他諸々の国際商業協会のように,準-立法的な制度として契約的に認められて成立する。この方法で越境的な契約締結は「ゼロから(ex nihilo)」「判決」・「立法」・「契約」という制度的な三角形を創り,これらは同時に循環的な方法でグローバルな契約の非-契約的な基盤として機能するのである。

 特殊=グローバルな法の創造に際して,なぜまさに「再帰カニズム」を介した外部化がそこまで重要なのだろうか。外部化は契約の自己-認証を脱パラドックス化すると同時に,グローバルな法「公式な」バージョンと,いかにも近代法らしいが,「非-公式な」バージョンの相互のダイナミクスを生じさせる。というのは,外部化が,国家-裁判的な契約法と私的=自律的な契約秩序の分離を生み出す組織的な法生成物と自発的な法生成物の間に,内的な差異を差し込むからである。したがって,この方法で仲裁裁判所と私的立法(private Gesetzgebung)は国際的契約そのものの役割を劇的に変えるのである。というのは,一般的取引条件のような仲裁裁判権は契約を基礎とするが,契約の権利・義務を,仲裁裁判所という「公式の法」により管理・規律される「非-公式の法」として変換するからである。この方法で,私的な仲裁裁判所と私的立法は規範と決定順位(Entscheidungsstellen)の階層を建てる決定体系の中心となる。こうして再帰性がレックス・メルカトーリアを可能なものにする。

 このやり方で,グローバルな法的論議は契約の自己-認証のパラドックスに基づいており,公式の,そして非-公式の法秩序の中で差異化するわけである。しかし,すでに純粋な経験に基づいてグローバルな法的論議が崇高な実務である「法的確信」に基づいていないため,レックス・メルカトーリアの擁護者に反して,このことは慣習法(Gewohnheitsrecht)とは関係がない。他の非-慣習法的な法現象形態と同様に,レックス・メルカトーリアもまた「私的立法」や「判決」,そして「契約」の携帯の中で,「実定的な」法制定の決定に基づいているのである。ただし,念のために補足しておくと,契約における「商業実務」として出てくる慣習(Gebräuche)は存在する。しかしこの慣習法の方法はレックス・メルカトーリアの実定的な法に対しては法的に限定された役割のみしか持ち合わせていない。

 今や,レックス・メルカトーリアは会社法と同一視することができないということを明らかにして置く必要がある。世界市場において,その構成員を見張るような包括的な団体(einer umfassenden Korporation)と似たようなものはない。 もちろん形式的に組織的で,専門的な組織は部分セクターにおいてはあるものの,構成員全員や入会,退会のメカニズムに関する内部の組織法を制御しうるような,包括的・形式的な組織の取引組織(Geschäftsorganisationen)は存在しない。法の妥当性の形式的な根拠は構築された世界市場の形式的な組織ではなく,個々の取引〔つまり契約〕なのである。

 結局は,レックス・メルカトーリアもまた若干の国際法学者らによる法なき契約とは性質をいささかも共有していないことになる。確かに,契約とは妥当性を転移させる決定メカニズム(der entscheidende Mechanismus des Geltungstransfer)であり,国家法や,商慣習,そしてグローバル・コーポラティズムの何らかの現象形態でない。しかしながら一方で,これらの国際法学者らは相変わらず自己統御的な契約の正当性を国際法の中に見つけようと腐心する。

 「国際法秩序が国際的契約の当事者らに,その契約の上で利用する法の選択肢を与えるには,契約当事者らが,国家法を使う余地を全く残さないほどに契約規定それ自体を完全に形成しているなければならないとするのは「論理的(logisch)」なことである。」(シュミットフ)

 これが「論理的」出ないことは明らかである。法を選択する権利(eines Rechts zur Rechtswahl)を容認することは,同時に国家法秩序の外部にある新しい非-国家法の創造を許可することを全く意味しない。主権国民国家の「上品さ(comitas)」は他の国家法秩序にこそすれ,非-国家法秩序に対しては言及しない。そのような論点先取(petitio principii)に対して,我々のグローバルな法多元主義の観念は2つの前提の基盤の上に成り立っており,それらの前提は無意識の国家権力の委任よりもラディカルなものである。第一の前提は,伝統的な法源学説に関係する。未だにグローバルな契約を妥当せしめる根拠となる法秩序が十分に成っていないことという状況により,我々は,契約そのものを裁判規範や立法と同等に分類される法源として承認しなければならない。第二の前提は法の正統性に関係するものである。「承認のルール(Erkennungsregeln)」は必ずしも,独立した,公共の法秩序から作られ,そして私的な契約の取り決め[つまり第一次準則]他-言及的に(hetero-referentiell)に適用されるわけではない。我々はここにおいて,同じく最初の区別をする暴力が法創造的に作用する本当の革命のみ比較対象となる,「自己-正統化(selbst-legitimierende)」の状況を体験するのである。「すべての暴力には、司法上の創造の性格がある」(レスタ)。このレックス・メルカトーリアの密かな革命──法を基盤とした革命行動に関するいずれのもののように──は他の法秩序の承認を必要とする。しかし,妥当性の問題は二次的な問題にとどまる。承認は法秩序の存在にとって本質的ではないのだ。


訳注

5)英語版ではここで“de-paradoxified”となっている。


Ⅵ.

 レックス・メルカトーリアと国家法秩序を,両者の区別をレックス・メルカトーリアの結果面での内在的な「弱さ(Schwächen)」に求めるような効果面での比較をし,レックス・メルカトーリアがグローバルな次元で未だに未発達な法秩序であるとすることは悪影響の大きい誤解であるといえよう。弱く,経済的な周辺に依存している制度的な中心の非対称性は一時的な出来事にとどまらない──このことは一方でグローバルな市場や企業のせいにし,他方で国際的な結合関係(internationaler Vernetzung)のみをあてにするローカルな政治のせいにもするのである。それゆえに我々は,グローバルな経済法の論議が自らの手で動態的な安定性(eine dynamische Stabilität)を手に入れ,明らかに国家法秩序と区別するような専門的な固有の論理を発展しうると期待できよう。

 ⑴グローバルな経済出来事を伴った構造的カップリング

 これはレックス・メルカトーリアの主な特領である。グローバルな経済取引の需要を育み,そして変えていくのは法領域にこそ相応しい。それゆえに,経済アクターからの利益・権力行使に対しては極端に免疫を持たない。かつては国家法秩序が到達していたが今はそうではないであろう,[レックス・メルカトーリアの]相対的な自律性と独立性はわずかな準-立法と準-判決の孤立に基づいている。そして将来においてもまたこの意味でレックス・メルカトーリアは汚職に塗れた(korruptes)法を作ることになるだろう。自律性が欠落することにより同時にその政治的正統性に基づく政治的な攻撃に対しても免疫を持たなくなるのである。

 ⑵エピソディックな性格(Episodenhafter Charakter)

 自己産出的なシステムは互いに行動し,相互の2つのコミュニケーション・サークル(先例・ドグマティーク・法典編纂)を通して結ばれ,安定化の進化メカニズムを表すエピソードを基盤にする。これがレックス・メルカトーリアの弱点である。というのは,レックス・メルカトーリアは相互に相対的に弱く結びつけられたエピソードを基盤にしているからである。地域全体において最高の経済的・政治的意義を持ちうる──発展途上国の投資プロジェクトの実例のように──,多くの推敲された契約レジームが見られる。しかし,この契約的な封建主義のレジーム(diesen Regimen eines vertraglichen Feudalismus)が持つ2つの結びつきは,グローバルな法の帝国がドイツの神聖ローマ帝国のパッチ・ワーク,つまりたくさんの小さい領土による不整合なアンサンブルと少し似ているくらいには相対的に弱いものである。それらの結びつきは相変わらず,標準的契約の定式化(die Formulierung von Standarsverträgen)に対して責任を持つ私的な組織を通して生産される。

 同様に,仲裁裁判所もエピソードを生産する点で強く,相互に結びついている点では相対的に脆弱である。事実に基づいた仲裁裁判所の裁定(begründeter Schiesspruche)の公表と先例の最初の予測(ersten Anzeichen eines Präjudizienwesens)を伴った,仲裁裁判所の体系構築の確固たる予兆はある。

 「仲裁決定(Schiedsentscheidungen)の絶え間ない流れは,国際経済生活(intelnationallen Geschäftsleben)に由来し,需要に合わせて専門的に作られる新しい法秩序を育む。商慣習・習俗・専門の準則(professionale Regeln) は,仲裁決定の基盤となるように合わせて修正される。」(クレメーデス)

 他方で,判例法発展(eine Fallrechtsentwicklung)と,2つのコミュニケーション・サークル内部の完結性を生産できる,仲裁裁判所の下でのヒエラルキーの構築(den Aufbau einer Hierarchie unter den Schiedsgerichten)にとっての構造的な障壁がある。それゆえに,レックス・メルカトーリアの独立な法の進化(Rechtsevolution)に関する見込みはかなり悪い。というのは,独立性にとって法的な変動・選択メカニズムが前提条件だからである。それに対して,特殊=レックス・メルカトーリアの変動と選択は,レックス・メルカトーリアの発達がその独自の進化を遂げるのではなく,外部である経済システムの進化と不即不離であるために,未発達なのである。

 より長い目で見れば,もしかするとレックス・メルカトーリアが持つエピソード間の結びつきは特殊=経路依存的な(pfadabhängige)法の進化が始目られる程度に強まるかもしれない。しかし今日までに見て取れるように,これらのエピソード間の結びつきは国家レベルでの対応関係──裁判所ヒエラルキー・議会による立法──とは明らかに区別される。前述したように,判例の存在と国際仲裁裁判所の先例拘束の原則(stare decisis)ははっきりと浮き上がっている。そして,制度的に「垂直的な(vertikalen)」裁判所ヒエラルキーの欠如を,仲裁裁判所が交互に「水平的に(horizontale)」お互いの観察ををすること,そして「三大」国際仲裁裁判所──国際商業会議所(Chambre de Commerce International),イラン・合衆国損害裁定委員会(Iran - United States Claims Tribunal),国際投資紛争解決センター(International Centre for Settlement of Investment Disputes)による増大する優勢さ(die zunehmende Dominanz)により補完されることは特筆すべきである。これが何を意味するか。伝統的な裁判の組織階層がヘテラルヒーなネット・ワークと評判のヒエラルキーにとって代わられることを意味する。

 政治-議会が国家法の裁判所のエピソードとの結びつくこともグローバルな次元では[国家法の次元と同じように]繰り返されない。グローバルなエピソードの結びつきはより早急に私的ガバナンスのレジーム,経済的ないし職業的団体組織,そして私的な性質にせよ公的な性質にせよ,国際組織からの全体の分散ネット・ワークが果たす。エピソードの結びつきの専門化された転写(Vervielfältigung)は将来,レックス・メルカトーリアの内的な差異(die Ausdifferenzierung)がいつか明確に増大されるような途に至ったり,規範を変化する・区別を選択する・ドグマを保持するメカニズムの安定化と分離を通して,経済的な環境に対して独自の法の進化が生じることになるかもしれない。

 ⑶ソフト・ロー(Soft Law)

 レックス・メルカトーリアの規範内容は曖昧である。具体的な私法規範の代わりに,事例に則して(fallweise)使われるいくつかの開かれた諸原理(eine Anzahl offener Prinzipien)を生み出す。そのため,このことが法律家がレックス・メルカトーリアの法秩序としての特性を全体として拒絶した理由の1つであるわけである。しかし,進んだ論証が明らかにしたように,分類の間違いが(der Kategorienfehler)ある。すなわち,一般的には未だに,バイナリー・コードに応じて妥当性の象徴を手続化するコミュニケーション・プロセスに目をつけるのではなく,準則の作用を自律的な法秩序の本質として探していた点に,間違いがある。グローバルな経済法の法規範を明文化するあらゆる探求にもかかわらず(訳注6),レックス・メルカトーリアの融通性(die Flexibilität)こそまさに特筆すべきなのである。つまりレックス・メルカトーリアは,構造・規範の法としての価値(der Welt)・原理としての法なのである。融通性は強みなのか,それとも弱みなのだろうか。またもや我々は融通性を欠点と捉えるべきではなく,世界法の性格と捉えるべきである。この融通性は世界法が不足している遂行可能性を補い,法秩序を変動する基本枠組みに対してしなやかで順応力のあるものとし,レックス・メルカトーリアをグローバルな法統合(eine globale Rechtsvereinheitlichung)に容易に適当なものにし,さらに規範逸脱の事件における象徴的な破壊に対して相対的な抵抗力を持たせるのである。融通性はレックス・メルカトーリアの柔順性(Nachgiebigkeit)の結果である。レックス・メルカトーリアは「柔らかい法(soft law)」であり,弱い法ではない。


訳注

6)典型例は,Unidroitだろう。


Ⅶ.

 しかしながら,長い目で見れば非政治的な出現と性格はレックス・メルカトーリアを再政治化から守りえない。反対に,経済関係の法化(Die Vererechtlichung ökonomischer Beziehungen)はあからさまに政治の介入を招くのである。グローバルな経済の進行ないしは多国籍企業を「操る」ことは,国家・国際次元の外部の政治にとっては困難であるが,形式的な法化の進展に伴い劇的に関係が変わる。法と経済の構造的カップリングの契約メカニズムが生成するや否や,政治は自らの独自の目的のためにそのカップリングを食い物にする。レックス・メルカトーリアの事例で観察できるように,国際政治の介入を逃れることはできなかった。将来にこの介入がより容赦なくなるかもしれないと言われている。

 レックス・メルカトーリアが私的なものとして作られた法システムの穏やかな地位に甘んじることはないのは,以下の2つの理由による。第一の理由として,再-国家化(Re-Nationalisierung)が挙げられる。国家的な国民経済・地域的な連合圏の競争力に関する問いが前景化すればするほど,レックス・メルカトーリアもまた圧力の下に国家的な経済政治に順応する羽目になるだろう。ここでの良い例は,国際的な著作権の進展である。いずれにせよ,レックス・メルカトーリアは国際組織の政治的な役割が前景化する公共的な政治空間に身を置くことになるだろう。第二の理由は,南北問題(Nord-Süd-Konflikt)である。「新経済世界秩序(neue ökonomische Weltsordnung)に関する議論はグローバルな経済法に対して影響を与えてきた。国連による売買契約に関する法の法典化(den UN-Kodifikationen zum Kauftrecht)や国連欧州経済委員会の規格的契約(den vorformulierten Verträgen der UN-ECE)は良い例である。

 しかしながら,相変わらず再政治化メカニズムはレックス・メルカトーリアにとって「環境」であることを表している。レックス・メルカトーリアの政治はグローバルな法制定メカニズムの内部メカニズムが政治化されるか,法生産の内部構造・プロセス──国際的私的組織における法制定の所在や仲裁裁判所の構成や手続──がより強く公共の議論や統御の射程に陥った場合にのみ実質的な変化を知るのである。